卓話 「最高の仕事 『日本舞踊家』 ~人から喜ばれる伝統芸能を目指して~」
日本舞踊家 有馬和歌子様
2022年4月28日
皆様こんにちは。 ご紹介に預かりました日本舞踊家の有馬和歌子と申します。
今、社会人2年目の私は、日本舞踊家という仕事にやりがいと誇りをもって、大好きな仕事として頑張っているところです。そして、私が活動する中で一番大切に考えていることが、副題につけた「人から喜ばれる」ことについてです。
まず、緊張をほぐしたいという思いで、中国の伝統楽器二胡で踊った「睡蓮」という演目をほんのワンフレーズだけ実演で踊らせていただきます。
(実演)
そもそも日本舞踊のルーツは祈りから来ていると思います。日本は農耕民族ですので、神様に「豊作になるように」、「天災や災害が起きないように」と祈ることから踊りが始まったのではないでしょうか。それが豪華な衣装や様々な趣向で踊りの幅が広がり、今に伝わっていると考えています。
私のプロフィールを少しご紹介いたします。私は1998年、平成10年に生まれました。この年は冬季長野オリンピックが開催され、郵便番号が7桁になった年だそうです。
父は坂東寛二郎という名の日本舞踊家で、私は父から日本舞踊を習いました。13歳で坂東流の名前をいただき、18歳で師範の資格をいただき、19歳の時に子供向けの日本舞踊教室の「子供舞踊塾」を父から引継ぎ、代表として取り組んでおります。
今まで、半蔵門の国立劇場や増上寺の野外と屋内にて踊らせていただいたり、奈良の東大寺の野外で5000人の観客の前で踊らせていただいたりしています。最近では、伊藤忠商事の「未来を試着しよう。」というCMに、日本の伝統的な衣服の着物姿で登場させていただきました。
https://www.youtube.com/watch?v=JSM0OtznLYE(外部リンク)
私は日本舞踊家として主に5つの仕事をさせていただいております。
表舞台に立つ仕事としては、映像やCMがあります。ベネッセの「こどもちゃれんじ」という子供向けの媒体にも出演させていただきました。二つ目は舞台やイベント、コンサートへの出演です。そして、三つ目は取材やインタビューを受けることも表舞台に立つ仕事です。また、四つ目にプロデュースという仕事では、映像やイベント、舞台の中味を相手のコンセプトや予算を勘案しながら作っています。最後の教育事業の仕事では、子供が大好きなので「子供舞踊塾」の事業を頑張っているところです。
社会人2年目の私が日本舞踊家という仕事の中で一番考えているのは、「伝統芸能イコール価値がある」という固定観念を見直すことです。日本舞踊はブランドで価値があるから良いものだというだけでは、なかなか日本舞踊の良さは伝わらないと考えました。お客様にとって日本舞踊のどこが喜んでいただけるのかをもっと研究し、伝統芸能として良質な部分を守りつつ、今一番喜んでもらえることは何かを考えてうまくバランスをとることが、伝統芸能の継承者としてやるべきことだと考えるようになりました。
私の2歳の初舞台の写真をご紹介します。この初舞台は泣いたり笑ったりの経験でした。私はこの初舞台のことも泣いた理由も鮮明に覚えています。日本舞踊は職人さんの種類と人数が多く、沢山の人に支えられて一つの舞台が出来上がっていきます。私の初舞台の時、普段は落ち着いた印象の職人さんたちが、ものすごい気迫で私に衣装を着せ、髪の毛を整えたのに圧倒されて泣いてしまいました。
次の映像は、私が2,3歳の時のお稽古の映像と、小学校2年生のときの「五条橋」という演目のお稽古の映像です。「五条橋」では父が弁慶、私が牛若丸を演じました。このように2歳からずっと父に日本舞踊を習い続けてきました。父が先生であるのが自然なことで、家にいれば優しいお父さん、稽古場では厳しい先生というのが当たり前になっています。
幼少のころから日本舞踊家になりたいという夢は変わらず、父に憧れて同じ職業に就きたいと思っていた私に、思わぬタイミングで仕事としての日本舞踊家を意識する転機が訪れました。それは、中学高校の部活動でした。私はコーラス部に所属していました。引退を控えた高校2年の文化祭で上演するミュージカルについて、コーラス部の部長として部員をまとめ、限りある予算と能力の中でできることを最大限発揮するにはどうしたら良いか、どう表現したらお客様に喜んでもらえるかと、仲間とお客様のことをとてもよく考えました。ふと、日本舞踊はどうだろうと考えたのがこの時期でした。日本舞踊を仕事として続けるなら、人のためにやっていくのが良いのではないかと考えたのです。
大学1年生の時の初めての仕事の映像をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=0-ztFizPxxY(外部リンク)
舞台の構成、出演など色々なことを担当させてもらった連獅子の映像です。舞浜のアンフィシアターで開催されたIT企業レノボの年度初めのパーティで演じました。オープニングで役員の方々が飛び入り参加するという演出の要望がありましたので、初めて日本舞踊に挑戦する日本語の通じない外国人の方にもできることを考えて構成しました。白い親獅子が父で、赤い子獅子が私です。後ろで振っているカラフルな晒はレノボのカラー6色から5色を選んで小道具屋に頼んで五色晒にする工夫をしました。
目の前に顔が見える誰かを喜ばせたいという思いから始めたのが「子供舞踊塾」です。「子供舞踊塾」では、子供たちに日本舞踊の稽古と舞台に出ることを1年間の短い期間で全てを体験してもらうという企画を行っています。国立劇場の大稽古場でリハーサルを行い、化粧して衣装を着せてもらって舞台に上がるという流れです。それ以外にも子供たちに日本の良いものを吸収してもらいたいという思いから、虎屋の協力を得て和菓子をみんなで作ったり、日本舞踊の本格的な小道具に実際に触れてもらったり、日本の鰹節や昆布のおだしについて学びを深めたり、増上寺にお邪魔して境内の中を見学させてもらったりと、日本の良いものを体験するという企画を行っています。昨年度から三菱UFJフィナンシャル・グループにも応援していただけるようになりました。あくまでも日本舞踊の教室ですが、子供たちが成長できる大事な居場所という役割であってほしいという気持ちで頑張っています。日本舞踊を通して得られるものがあれば、日本舞踊の価値を上げるきっかけになると信じています。そして、子供たちが喜ぶのと同時に、日本舞踊に携わる多くの職人さんが次の世代を育てて、その職業だけで生活していける、誇りを持てるようにすることに貢献したいと思っています。
私は、可能性の眼鏡をかけることをいつも考えています。自分の活動や自分の視野の中に、日本舞踊の価値が眠っていると思います。可能性の眼鏡をかけて、まだ掘り起こしていない日本舞踊の価値を見つけたいと思っています。
最後に今チャレンジしていることをご紹介いたします。「ひとのときを、思う。JT」というキャッチフレーズでおなじみの日本たばこ産業が、法人向けの日本舞踊体験プログラムに参加されています。私は主に子供たちを対象としていますが、父は大人の方を対象とした教室を40年以上続けております。大人の方にも日本舞踊を通して日本を学んでもらいたいという気持ちから単発の体験プログラムを企画し、赤坂区民センターのホールや国立劇場の舞台に立つことを目指して稽古するというプログラムになっています。
今日、ほとんどの方と初めてお目にかかりましたが、もう少し話を聞いても良い、育ててあげても良いという方がいらっしゃいましたら、是非ご指導いただければと思います。「子供舞踊塾」、そして父が主催する大人向けの「寛和会」もご協賛、ご支援を募っております。ご賛同いただけましたら嬉しいです。本日はありがとうございました。
卓話 「目の錯覚でコロナ太りも無かったことに!」
ファッションスタイリスト 渡邉美奈氏
2022年3月10日
おはようございます。スタイリストの渡邉美奈と申します。
私は実はロータリアンの家庭で育っております。ロータリーの楽しい思い出はクリスマスパーティで、毎回笑顔があふれる会だと思い楽しみにしていました。
笑顔が好きで、人を笑顔にするのも好きな子供でした。人の良い所をみつけるのが昔から得意でした。ネガティブをポジティブに変える力を持っていたのかもしれません。それが今生かされていると思います。
イケイケバブルの時代には、生意気で鼻持ちならないアフロのスタイリストだったこともありますが、周りの方々の気遣いとお力添えで今があると感謝しております。
私が人生を楽しみ笑えるのはこの仕事のおかげだと思っています。衣装デザインのスタイリング、テレビ、広告、映画、ミュージカル、海外イベント、商品企画など色々な分野の仕事をしてきました。具体的には、テレビの「王様のブランチ」や「とくダネ!」や、「サンリオ」のミュージカル、「ライザップ」の広告、元AKBの方の企画などもやっています。その他、JALの機内誌やスタイリストがセレクトするパソコン、「SONY」のスタイリスト的なカメラの使い方などにも出させていただきました。アフロの頃には沢尻エリカさんが出演していた「Harajukuロンチャーズ」という番組にスタイリストの先生として毎週出演させていただきました。
面白い仕事としては、テレビ番組の「亭主改造計画」でスタイリストをしていました。そのときに、人目にさらされていない一般の方々のスタイリングで、目の錯覚を使って体型を美しく見せるということに面白さを感じるようになりました。錯覚を学んで自分に取り入れればスタイルを変化させて見せることができるのです。
コロナでお家時間が増えて太った方も多いと思います。太るのは簡単ですが痩せるのは本当に大変です。そういう時に活用したいのがストライプで縦長に見せるスタイリングです。
ストライプを使って背を高く見せるには、ボトムスの切り替え位置、ウエストを少しだけ3センチ以内で上に上げます。そしてトップスを3センチ短くします。両方合わせると6センチ長さが下に伸びて見えます。上半身が小さく見えると全体バランスが八頭身に近づきます。切り替えをしたウエストから下を同系色でまとめて縦に長く見せると足長効果が生まれます。スタイルの錯覚としては、トップスを小さくして、肩幅はそのままで腕をおろすとウエストが少しへこんで見えます。そのウエストからAラインの開くスカートにすると、ウエストの幅とスカートの幅の対比でウエストが細く見えます。こういうことを少しずつ積み重ねて全体的にスタイルを良く見せることができます。
手首、足首、首の5か所を見せると細見え効果が生まれて全体に細いような錯覚が起こります。例えば、足首がしまって細く見えるブーツを履いていると全体が細いのだろうという錯覚が起こります。短いブーティも細い足首を見せることで細見え効果が生まれます。
私の仕事の中で目の錯覚を取り入れたなりきりスタイリングの例として対照的なお二人をご紹介します。
まず、水谷豊さん。周りの方々やスタッフにまで気を遣われる方で、穏やかで、知的で、博学で、こだわりのある素晴らしい方でした。そんな素晴らしい水谷さんですので、その素晴らしさを織り込んだなりきりスタイリングを考えました。男性のスーツの襟から中の三角形をゴールデントライアングルと呼び、一番目がいく場所です。水谷さんは小柄なので、このゴールデントライアングルを小さくまとめました。ネクタイは細目にし、ジャケットの襟幅もネクタイに合わせ、少し複雑にするためにベストをいれました。そして小物にはイギリス紳士のような上品な素材の眼鏡を選びました。水谷さんにはイギリスの紳士というイメージを伝えて、なり切っていただきました。
水谷さんとは対照的なのは、北島音楽事務所の小金沢昇司さんです。裏表がなく、嘘は言わない、おべっかを使わない、本当に筋を通す良い方でした。決して硬いわけではなく、朗らかで穏やかで、いつも笑わせてくださる面白い方でした。小金沢さんは身長が高く横幅もあり筋肉質でがっちりしており、お顔もちょっと大きめです。そこでお顔が小さく見えて全体のバランスが整うように、ゴールデントライアングルは襟幅を少し太めにし、ネクタイも太目にしました。小物としてネックレス、ブレスレット、指輪などをつけていただきました。素材感としては光沢感のあるどっしりとしたものにして、イタリアの伊達男、ゴッドファーザー的なイメージを伝えて、なり切っていただきました。このようにイメージを伝えてなり切ってもらうのが一番分かりやすくて速いです。
ファッションのアドバイス的な話になりますが、ヒートテックは生地が汗を吸って熱を出すので、肌を乾燥させる素材だということはご存知ですか。乾燥を避けたいのであれば、シルク。シルクがニットになったものを着るのが肌に一番良いです。着るコラーゲンと言われ、アミノ酸バランスがよくてお肌によい素材です。
また、革は濡らしてはいけないと言われますが、汚れを落としてきれいな水で洗い、乾く前にミンクオイルをつけてください。ミンクオイルがない場合は純粋なワセリンでも大丈夫です。そうすれば保湿効果で長持ちします。靴も同じですので、是非ともやってみてください。
あと一つだけお話させてください。
私は今、乳癌のブラジャーを作っています。私が乳癌になったのは50代で手術は命の選択の一つだと思い、悲しいことはありませんでした。ただ、同時期に20代の乳癌の女の子が手術室に入ったときに、ご両親が顔を手で覆った姿がとても辛く目に焼き付いてしまいました。私はその子のブラジャーを作ろうと思いました。今までのブラジャーは不細工でとても見せられるものではありません。私は見せても可愛いブラジャー、自信をもってつけられるブラジャーを作ろうと思っています。
今、主治医の先生とシリコンの変形を防ぎ、自分の胸の老化に真っ向から立ち向かう唯一無二のブラジャーを作ろうと頑張っています。まだサンプル工場探しの段階ですが、頭に浮かんだものは必ずできると信じているので、自分を追い込むためにも皆さまの前で公言させていただきました。
最後になりますが、私はファッションの面白いところ、楽しめるところが大好きです。皆さまも無理なく錯覚を取り入れて、なりきりファッションをたくさん楽しんでください。
卓話 「2022年の世界経済と市場展望~アフターコロナで世界はどうなるのか~」
株式会社武者リサーチ 代表 武者陵司氏
2022年1月20日
皆様こんにちは。 本日はこのような席にお招きいただき有難うございます。
最初から宣伝して恐縮ですが、来月発売の本を書いております。『安い日本が日本を大復活させる』という本で、相当面白い本ですので、よろしければお買いいただくか、言っていただければ、プレゼントさせていただきます。
日本では、コロナ敗戦、グリーン敗戦、ハイテク敗戦、金融敗戦と、敗戦ばかりが言われておりますが、日本が一番悪かったのは8年前です。アベノミクスが始まった2011年、日経平均は7,000円でした。最近は3万円をつけて、日本の株価は上昇過程に入っています。リーマンショック以降の12年間で日本の株価は4.3倍になっており、年率13%の上昇です。この上昇率が10年続くと、日経平均は10万円になると思います。
1年前、2年前は、米中対決という覇権争いと、コロナの影響で将来どうなるか不安でした。しかし、米中対決は持久戦となり短期的に事態が深刻化する可能性は低くなり、コロナもそろそろ終盤に来ているので、先行きの見通しは明るいように思えます。皆様の関心は米国の金融引き締めの経済への影響、そして、日本の最悪期は終わったと私が申し上げる理由だと思います。 本日はこの2点、米国の金融政策転換が持つ意味と日本の復活についてお話いたします。
今、我々の世界は歴史的な技術革新により劇的に変化しています。技術革新がもたらす供給力余剰によって、需給の逼迫がなくなりました。このためデフレとなっています。技術の向上により生産性が上がり、人を減らしても生産できるようになり、人余りとなっています。また、コンピュータなどに見られるように10年前に比べて製品価格が大幅に下がり、金余りとなっています。デフレ、人余り、金余りはすべて技術革新の急速な進化によるものです。だからインフレにならないのです。
この状態を放っておくと、供給は過剰となり、金余りとなり、大不況に陥ります。このような局面で一番大事なことは、需要を増やすことです。技術革新によって生産性が上がり供給力が2倍になったら、我々の生活水準を2倍に押し上げることです。しかし、日本人には質素倹約が美徳だという観念が染みついています。これからは消費が美徳なのです。この消費が美徳と言う精神が極めて旺盛なのが米国です。先進国の中でも日本ほどコロナの影響が抑えられている国はないのですがOECDによると、2021年の日本の経済見通しは1.8%、米国は5.6%、ユーロ圏が5.2%と、日本の経済成長の悪さが際立っています。なぜかといえば、日本は質素倹約の精神で必要以上に経済活動が低迷しているからです。日本ではコロナに対する過剰な警戒で経済にマイナスの影響が及んでいますが、今年コロナが終わった後のリバウンドは大きいと思います。コロナによって溜まった欲求不満とお金が一気に爆発して、景気は良くなるでしょう。
歴史を振り返ると、200年前の米国では100人の内74人が農民、つまり、農民1人が1.34人分の食料を生産していました。200年後、農民2人で100人分の食料が生産でき、生産性は50に上がりました。この生産性の劇的な上昇が過去200年の経済における最も重要な変化です。74人が2人になり、農業を失業した72人はどのような職業に就いたでしょうか。それは人々をより幸せにする新しい産業です。衣料、住宅、より質の高い教育、エンターテイメント、また新しく生まれた産業です。そのおかげで我々の生活は、200年前の王侯貴族よりも豊かで便利になっています。
今また、同じことが起こっています。恐らくあと10年もしないうち仕事は全てロボットがやってくれるようになるでしょう。工場や職場に人が必要なくなる。しかし、その失業者は、新たに生まれるビジネスに吸収され、雇用され経済は発展していきます。
どのようなビジネスが増えるかと言えば、私は芸術、エンターテインメント、スポーツなどが発展すると思います。仕事に出かける必要がなくなると、筋肉を使わなくなり欲求不満になります。その結果、猛烈なスポーツブームが起こるのではないでしょうか。
このように、お金さえあれば、人は次から次へと欲求を満たす新しいビジネス、あるいは雇用を生み出しますが、問題は時間が足りないことです。米国は200年かけて72人の失業者を吸収しましたが、同じことを5年、10年ではできません。その幕間をつなぐのが政府の役割です。人余り、金余りであれば政府が人と金を使って新たな需要を作る。そのような政策が打ち出されれば経済は安泰です。しかし、財政赤字を減らせというような政策が打ち出されれば、ますます人と金が余り、デフレ化して経済は混乱に陥ります。我々は政策が極めて大事だということを念頭に置く必要があると思います。この考え方をはっきり認識しているのが米財務長官のジャネット・イエレンとFRB議長のジェローム・パウエルです。彼らは、一時的に金融引き締めに転じたとしても、需要創造を促進する政府の政策に水を差すことは決してしないので、安心して良いと思います。今、テーパリングとか金利引き上げといったことが起こっていますが、株価の急落とか景気の悪化などは起こりようもありません。ただ、金融政策が転換する局面では乱高下がありますから怪我をしないように警戒する必要があります。
2点目の日本の復活についてご説明します。
私はいよいよ日本の復活の時代が来たと思っています。先ほど、今のペースでいけば日経平均はあと10年で10万円と言いました。2012年頃から上昇軌道に入った日本の株価上昇はこれからも続いていくでしょう。日本には新しい主役が揃っています。2000年からの日本の株式時価総額トップ20の企業推移を見ていくと、現在のトップ20社の中には、新興企業が台頭していること、ニュープレイヤーが舞台の中心に立っていることがわかります。私は、そのうち12社を将来のリーディングカンパニーと位置付けています。具体的に名前を挙げれば、ソニー、キーエンス、リクルート、ソフトバンク、日本電産、ダイキン工業、任天堂、ファーストリテイリング、HOYA、東京エレクトロン、信越化学、村田製作所です。これらの企業は新たな情報化の時代を担い得るビジネスモデルを持ち、それぞれグローバルナンバーワンのプレイヤーです。説得力のあるキャッチフレーズを発信する、将来の日本経済を担う新たな主役が誕生しているのです。
さて、日本の株式市場の主役は揃いました。そしていよいよ株の買い手が登場します。それは日本の個人投資家です。
今、日本の株式、金融資産、家計の金融資産の全体を100とすると現金・預金が75%を占めて、株・投信は2割しかありません。米国では金融資産の内、現金・預金は18%で株・投信が7割を占めています。つまりアメリカ人にはこれ以上株を買う余力はありません。一方日本人は現金・預金がたっぷりあるので、株をたくさん買う余裕があります。全部で1000兆円というお金が、iDeCoやNISAといった個人の証券投資勘定と言う形でどっと株式市場に入ってきます。新しいお金がいよいよ動き始めているのです。
昨年、日本の株は米国に比べると調子が良くありませんでした。しかし日本の株式のパフォーマンスをみると、年間で5%上がっています。日銀が買わなくなり、外人も売りに回った中で、日本株が5%も上がったということは、相場の基礎的な体温がだいぶ上がってきているといえます。
このように、グローバルな技術のトレンドも良し。日本の新しいプレイヤーも揃ってきた。さらには株の買い手も揃っている。これからは明るいシナリオで対処していける。年の初めでもありますが、今年は大いに希望を持っていただきたいと思っています。
どうもご清聴ありがとうございました。
【本卓話掲載は例会の卓話を紹介することを目的としたものであり、投資を勧誘・推奨したものではありません。】
卓話 「ビスポーク(オーダー靴)の魅力について」
靴職人 土屋聡氏
2021年12月16日
皆さん初めまして、土屋と申します。よろしくお願いいたします。
私は東京の国分寺でビスポークというオーダー靴、手で一つずつ靴を作る仕事をしております。今回、オーダー靴がどういうものかを知っていただけたらと思いお話しさせていただきます。
私は、靴を作り始めて20年、年齢は46歳です。高校卒業後にプロのダンサーとして、ヒップホップと言われるストリートダンスをやっていました。ヒップホップダンスは黒人の音楽から始まったもので、黒人のダンサーとも仲良くショータイムに出演したりしていたのですが、その中で黒人に対する差別などがあることを知り、自分は何も知らない人間なのだと気づき、世界の文化に対する興味が広がりました。そこでバックパックで旅に出ることにしました。7か月余り、少ない荷物を背負って陸路で世界中を回る中で色々な経験をしました。ストリートで手で物を作って売る人々をみたりして、物づくりに興味を持つようになりました。
日本の二大巨頭の靴の町の一つ、東京浅草にある東京都の職業訓練校に入ったことで私の靴との関わりが始まりました。単純に手で靴を作ることが楽しかったので、この感じで就職できないかと考えましたが、当時は量産靴を買うのが主流の時代でした。靴を手で作る唯一の就職先が義肢装具の会社でした。障害者のための靴は一つずつ、お客様の足と症状に合わせて作っていきます。この義肢装具の会社で靴を作っていく中で二人の師匠と出会いました。
一人はオーダーパンプスの巨匠の斉藤師匠です。師匠は、昨年引退されましたが、それまで私は週1回お手伝いをしながら、足のことや健康のことをたくさん学びました。
もう一人が、津久井玲子師匠です。日本の伝説の靴職人で業界ではレジェンドと呼ばれる関信義さんの一番弟子です。関さんは亡くなられましたが、私は関さんの一番弟子の一番弟子なので孫弟子となります。その縁があって、きれいな革靴、長く持つ革靴を学ぶことができました。
こうしてずっと靴を作り続けています。そして今は、専門学校で特別専門技術を教えたり、自分の工房に皆様もご存知のような某大手靴メーカーのプロの方々が習いに来ています。量産靴は、専門が分かれており完全分業で作られています。分業ゆえにプロフェッショナルであり、良い点がたくさんあります。 一方、私のビスポークという一人が一つずつ全てを作っていく靴は、一つずつの工程で問題解決をすることができ、終始細部まで丁寧に作り上げられます。この一人が最後まで全部責任を持って作業できることが一番大きな魅力です。私は習いに来ている方々からもたくさん教えてもらって、日々精進しています。
古い時代にはヨーロッパで職人同士が技術を競い合う大会が開催されていましたが、近年は手作りの靴が主流でなかったために長年開催されていませんでした。それが最近、手作りの靴の魅力が見直され、2018年に世界大会が復活しました。この大会にはジョンロブやコルテ、カジアーノ&ガーリングなどの名店と言われる靴屋のビスポークを扱う職長クラスが参加しています。私も面白いと思って2019年の大会に出場しました。この世界的に技術を競う靴の大会で10位までが入賞のところ、私は7位になり世界のトップテンに入ることができました。
また、国分寺市のふるさと納税で私の靴を買うことができます。そこで会員の青栁様と出会い、今回の卓話に至るということになりました。
さて、ビスポークについてお話いたします。
ビスポークはオーダー靴ということになります。ビースポーク、ビースポークンとも言います。直訳すると職人の話を聞きながらオーダーするという意味のようです。スーツのオーダーでも使われる言葉です。私は、「話される」の直訳から、ビスポークを「仰せのままに」と捉えています。高い技術でお客様の要望を叶える。足に合わせて、格好良いデザインで、堅牢で一生持つような靴を作る責務がある仕事だと考えています。
ビスポーク靴の魅力の一つは堅牢であることです。皆さんが履いているような靴の形はイギリスのノーザンプトンで生まれたと言われています。産業革命でセメント靴など値段が安く気軽に買える靴が登場しました。しかし、昔からある作りで、いまだにそれを超える製法がない堅牢な靴であることがビスポーク靴の大きな魅力となっていることを知っていただきたいと思います。
もう一つの魅力は一人の職人が一つの靴を徹底的に作り上げる点です。先ほどお話したように、私は教職にもあるので、某大手メーカーの企画の方から相談を受けることもあります。量産靴で専門性を持っている人はその専門分野については長けています。しかし、他の分野で問題が起こったり、最後の完成図が見えないために問題解決ができないことがあります。ですから、お客さまの足を見て、歩き方や好み、普段の生活を聞いた上で一つの形を作り上げていくことが一つの魅力だと思います。
皆様に靴でのトラブルなど何かあれば伺えますか。
Q: 私はくるぶしが人よりも出ているので、既成靴だと脇の部分がくるぶしに当たって血が出たりするのが困ります。
A: 足には56本の骨があります。脚部の脛骨腓骨が拠点を取る距骨がありその下に踵骨つまり地面を踏むかかとの骨があります。脛骨腓骨が距骨とつながるそのでっぱりがくるぶしです。くるぶしの高さは人によって異なります。一方、既製品は一つの形で、統計的にこのサイズならくるぶしの位置はこのあたりと決めています。ですから自分の足よりも大きいサイズの靴を履くとくるぶしに当たるという可能性があります。ビスポーク靴の場合はくるぶしもきちんと測って当たらないようにデザインすることができます。
Q: 私は女性用の靴をオーダーで作ったのですが、出来上がった靴がリハビリで履くようなみっともない靴で、外で履けるような靴ではありません。結局今はスニーカーを履いていますが、スニーカーだとヒールの靴が履けなくなります。ヒールの靴は常に履いていないといけないのでしょうか。
A: オーダー靴の難しい点は、足に合わせると足に近い形になってしまうという点です。既製品はある一定の足の体積と作りやすさ、足へのなじみ方で成立するように作られているので、時には過度に格好よく作られています。
ヒールの靴は見た目に美しいと思います。ふくらはぎを緊張させるので鍛えられます。ただ地面を踏む場所の高低差があるので、痛かったり疲れたりします。ヨーロッパでは足のことを考えて、パンプスなどは現地で履き替える風習もあるようですが、日本ではそういうことがないので、女性の悩みとしては一番多いですね。
Q: オーダー靴を注文した場合、依頼してから商品が届くまでどれくらいの時間がかかりますか。
A: 私の実働時間を1日12~16時間労働として考えると14日から16日くらい、8時間労働として考えるとおひとり様約1ヶ月となります。 しかし、一人のお客様の靴だけを作るわけではありませんし、革のなじみとかマテリアルの伸びなどの時間がありますので、私がオーダーを受けるときは1足9か月いただきます。早いと半年くらいの場合もあります。
今日はどうもありがとうございました。
卓話 「『後列のひと』を描き続けるわけ」
ノンフィクション作家 清武英利様
2020年1月30日
ご紹介いただきました清武です。
私は今、三つ目の人生を生きております。元々は、読売新聞社会部の記者を長く務めました。その後、読売巨人軍の球団代表を務めましたが、その非を訴えて辞めて、今は、ノンフィクションを書いています。
現在、文芸春秋で連載している『後列のひと』は、当初1年の約束でしたが、面白いので続けるように依頼され、2年目になりました。週刊文春では『サラリーマン球団社長』を連載しております。基本的に私のテーマは、組織を支える人です。『後列のひと』とは、例えば、講堂に集まった時に後方にいるような人々のことです。私はそういう人が好きですし、自分もその一人でした。
私が、中部本社の社会部長を務めていた頃に『幸せの新聞』というものを作っていました。新聞を読んでいると悲しいことや怒ることが多いですね。新聞記者がそういうニュースを選んでいるからなのです。私は長い間トップランナーを追いかけ、特ダネを追いかけ、人を傷つけたりもしたので、中部本社社会部長になったとき、これからは1ページだけ幸せの記事で埋めたいと思いました。編集長の私も自分で書き、実際に一年半続けて、後輩に引き継ぎました。
人間には不幸なこともたくさんありますが、例えば倒産した場合、人は倒れたら起き上がるしかありません。そこを捉えると、もしかすると、幸せに向かう道を切り取れるかもしれないと思い、そのようなニュースを積極的に取り上げました。『後列のひと』は、その路線上にあると思っています。
私は球団代表を辞めた後に、『しんがり 山一證券最後の12人』というノンフィクションで、山一證券破綻の際に会社に踏みとどまって清算活動をしたり、破綻の真相について一生懸命追求した人々、今まで全く目立たなかったが、破綻した時点で光り輝くような、心の中に核のようなものを持っている人々を描きました。当時、私は読売新聞グループとの間で6、7件の関連の裁判を抱えて、1年間に証人尋問が何度もあり、大変緊張しておりました。そのようなときに、山一證券の人々は今何をしているのだろうと思って取材したところ、自分自身の苦しみや怒りは大したものではないと思えました。
この『しんがり』で講談社からノンフィクション賞をいただき、その後『プライベートバンカー』や『石つぶて』を書き、少し前に『トッカイ』を書きました。『しんがり』と『石つぶて』はWOWOWでドラマ化されており、『トッカイ』も多分ドラマ化されるでしょう。『トッカイ』とは、不良債権の特別回収部のことで、整理回収機構の中で日本の不良債権を回収するために歩いた人々の実話です。私はずっとノンフィクションを書いているので、そういう人々に心打たれるところがあります。
『後列のひと』では、心打たれるような人、胸の奥をつかまれるような人を探しています。本当はそういう人々がたくさんいると思います。本日も、この卓話の後、特攻兵士のための旅館を経営されていたご夫婦の話をお伺いすることになっています。そういう人々を探していく作業は、大変厄介で面倒ですが、お話を聞くと何時間でも聞くことができるようになりました。人の人格はそう簡単に分かるわけがないので、私は1回会っただけではまず書きません。3回、4回と会い、色んな取材をします。聞いたお話は可能ならばテープに録音して全文を書き起こします。新聞記者は基本的に人が言ったことを書くわけです。言わないことは書いてはいけないので。しかし、人は本音をなかなか言わないものです。言わんとするところをどう汲み取るかが大事なのです。
よく、人間は肉体が滅びただけでは死なない、その人を知る人が亡くなった時にその人生がこの世界から消えるといいます。でも、自分を知っていると思う人が、本当はどこまで知っているのでしょうか。人間はプリズムのような多面体ですから、自分だけが知っている自分、他人が知っている自分、他人も自分も知らない自分があるかもしれません。そういう多面的なものを何とかして残すべきだと思います。
この会場には、亡くなられたときに新聞の死亡欄に載られる方が何人もいらっしゃると思います。業界の用語で「亡者記事」と言います。私もあるいは載るかもしれませんが、私は自分を知らない若い記者に書かれたくないので、自分で亡者記事の予定稿を書いています。自分の亡者原稿を書くのに大事なことは何歳で死ぬかと考えることです。私は今69歳ですが父の人生を超えたいと思っているので、79歳、80歳くらいまで頑張りたいと思っています。例えば、79歳で死ぬとしたら、あと10年あります。その10年間に何をやるかを考えなければいけません。亡者原稿にはまだ実現していないことも書き入れるのです。私は最後に桜の盆栽家と言われたいので、亡者原稿には、晩年は桜の盆栽家としてこのような作品を残したというように書きます。そうすると、亡者記事が死亡記事ではなく希望記事のようになります。
また、死ぬまでに自分がやりたいことのリスト、「バケットリスト」を作るという方法もあります。これは、モーガン・フリーマンとジャック・ニコルソンが出演した映画、邦題の課『最高の人生の見つけ方』で非常に有名になりました。バケットリストには自分が本当にやりたいこと、欲しいものを書いて、実現したら消していくことが大事です。私は、「ノンフィクションの賞が欲しい」と書き、実現したのでそれを消しました。バケットリストには出来るだけ実現可能な、しかし最大限の努力を要するものを書き、人に見せずにひとつずつ実現していきます。そしていつか残された人が亡者原稿と合わせて知ることになるでしょう。
今、週刊文春で連載している『サラリーマン球団社長』では、阪神電鉄の傍流の部長が、ある日突然「阪神タイガースに出向せよ」と言われて、全くの素人が球団社長となって再建するという話を書いています。私は巨人から阪神を見ていて、本当に不思議な球団だと思いました。1リーグ6チームでやっているのだから6年に1回は優勝できるはずなのに、15年以上も優勝できないのは自然の理に反しています。球界七不思議のひとつです。それを変えようとして、サラリーマンの目からみた経営改善、改造に取り組む苦労と壁を描いています。球団社長としては安い給料でしたが、それでも頑張るという気持ちを支えていたのは、あきらめたらあかん、という後列人の意気地です。タイガースファンの方々、阪神タイガースを甘やかしてはいけません。
どうも野球の話になると熱を帯びてしまいますが、本日は、亡者原稿とバケットリストのことだけ覚えておいて下さい。どうもありがとうございました。
【卓話編集後記】
今回の卓話では、困難な問題に直面した時、それまで目立つこともなかった人が力を発揮して道を切り開いていく姿を描いたノンフィクション作品を発表している清武様のお話を伺いました。清武様の作品は読者に勇気と感動を与えていますが、その陰には、描かれている人たちの声に耳を傾けしっかりと聞くという取材への強いこだわりがあったことに感銘を受けました。
また、死ぬまでにやりたいことのリストを作るだけでなく、新聞の死亡記事「亡者原稿」を自分自身で書いておくというお話は、残りの人生をどう生きるかを考える大事なヒントになり、会員の方々もなるほどと思われたようです。
卓話 「英語の語源を学べばわかる日本の古さ」
明治大学教授 織田哲司様
2020年1月23日
本日はお招きいただきましてありがとうございます。
今日は「英語の語源を学べばわかる日本の古さ」というタイトルで、英語と日本がどう繋がるのか不思議に思われるかもしれませんが、話が進むにつれて繋がっていくのが見えてくれば良いと思っています。
この会はいつもキャピトル東急ホテルで開催されているということですが、実はこの場所はパワースポットです。パワースポットというのは神様から良い力をいただける場所です。隣に日枝神社、総理官邸などもありますが、昔から日本人はパワースポットであることを分かっていて、重要な建物を建てていました。何故なのかというのは、これから徐々に話が繋がっていくと思います。
私の専門は英語の歴史で、1500年の歴史がある英語の、どの時代の文献も読めます。 そしてこの英語の歴史から、なんの関係もないような日本のことも見えてくるというのが分かってきたということをお話してまいります。
今日は普段英語とは縁のない方にも親しみのある単語で、この場所にも関係のある単語を探してきました。
まず、「soul」という単語、「魂」という意味です。日本語の場合、漢字は偏と旁から成り立っているので、肉月があれば身体に関係する漢字だということが予想できますし、自分でも分けてバラバラにすることができます。英語の場合も、語源を知るために分けることができます。この「soul」という単語を語源で分けると、「sou」と「l」の間で分けることができます。「sou」は「海」、「l」は「~に属するもの」という意味です。何故、魂は海に属するものなのかというと、イギリス人の祖先であるドイツの人々あるいは北欧の人々、特に沿岸部の人々は皆、魂は海から来て海へ還ると考えていたようです。このことを知った時に私は、日本と同じではないかということに気づきました。
キャピトル東急ホテルのある赤坂から銀座のあたりの縄文時代の地図を見ると、外堀通りは、昔は海の底で、日枝神社のある場所は岬の突端になります。かつて岬の突端だった場所は、多くの場合、現在、神社か寺か墓地になっているという特徴があります。何故かというと、先祖の魂は海の底に眠っていると考えられて、海に一番近い岬の突端で先祖のためのお祭りを昔から行ってきたからです。岬は魂に会える聖なる場所であり、魂は海に還ると日本人も思っていたようです。 「soul」の語源を調べていくと、あの世に対して日本人の祖先と同じような感覚を持っていたことが分かるということで、ご紹介しました。
地名も語源をたどると面白い発見があります。 何故「赤坂」という地名がついたかというと、この辺りは昔海の底でしたから、地面は粘土質の土です。粘土で作る埴輪でもお分かりのように赤っぽい土です。つまりこの辺りは赤い土の坂道だったので「赤坂」と呼ばれるようになったようです。赤坂の「坂」という言葉は「底」や「境」と関係があります。この世とあの世(異界)の境、この世とあの世をつなぐのが坂である、坂道の下にはこちらとは違う世界がある、ひょっとしたら神様がおられると、昔の日本人は考えていたようです。
次の単語は「king」、王様です。この短い単語も語源で敢えて分けてみると、nの真ん中で分けることができます。「kin」と「ing」という成り立ちで、1000年位前までは「キング」ではなく「キニング」と呼んでいたようです。「kin」は一族や生まれを表し、「ing」は跡取りを表し、一族の跡取りというのが元々の意味でした。 一族の跡取りを一番大事にする家系は世界中どこでも王家です。この一族の跡取りから、リーダー、王様というように意味が変わってきたと考えられます。
ヨーロッパのさまざまな言語は、今から6000年、8000年前には一つのところの一つの言葉であったと考えられています。 その場所は、南ロシアのカスピ海と黒海の間にひろがるステップ地帯であったと言われています。このステップ地帯から、やがて西へ移動していった人々が今のヨーロッパの人々です。そして、東南の方へ移動していった人々がアフガニスタン、イランを経てインドの人々になりました。 よく考えてみると、南ロシアのステップ地帯はシルクロードの終点です。この地域から西に移動した人々はアルファベットの文字を使い、東に移動した人々は恐らく漢字を使っていたはずです。
先ほどのkinは一族や生まれを表す言葉でしたが、ガ行になるとgen(ゲン)となります。例えば、「generate」は「生み出す」という意味ですし、生み出された人々の集まり、「generation」は「世代」という意味になります。漢字でサンズイに「原」を書いた「源(ゲン)」という言葉も生まれを表しています。証明するのは難しいのですが、語源は同じだと考えられているようです。
ヨーロッパの王家の家系図では、先祖をたどると必ず神に繋がっています。父なる天の神と母なる大地の神が結ばれて生まれたのが王の先祖だと考えられています。考えてみると日本も同じです。天照大御神(アマテラスオオミカミ)から繋がっていると言われているのですから非常に似た考え方です。 ここで面白いのは、父なる天と母なる大地が結ばれて生まれた子供の末裔がこの世を治めるkingであるという考え方は、日本の王家(皇室)にも通じていることです。神武天皇の父親の家系は天の神です。最終的には天照大御神につながりますが、父親は天神です。一方、母親の家系は木花佐久夜姫(コノハナサクヤヒメ)につながる、大地系の神です。天と地が結ばれて、その結果生まれた王が日本を統べるという考え方です。 そして日本の天皇は、大嘗祭で天照大御神から霊性をチャージされて、治める力を得るという儀式を行っています。天と地の交わりから生まれた人がこの国を治める力を持つという考え方は西洋も日本も同じですが、大嘗祭のような天の力をチャージされるということが今でも続いている国、古代性が現代にも残っている国は日本だけです。
私の恩師の渡部昇一先生は、日本の歴史や政治評論などでも活躍されていましたが、元々は英語研究の専門家でした。私たちに「英語の古い言葉を勉強しているのは、それで良いけれど、いつかは日本に戻ってくるんだよ」とおっしゃっていました。こうしてみると、英単語の語源からイギリス人の先祖の世界観をうかがい知ると同時に、日本には古代性が残っているという、英語から日本の古さに繋がることができ、日本は歴史があって本当に良い国だということで、そのような話の一端をご紹介させていただきました。
ありがとうございました。
【卓話編集後記】
親しみやすい英単語を例に挙げて、言葉の成り立ちを解説していただき、語源を遡ると英語と日本語に共通点があることや、神話から読み解ける日本の皇室とヨーロッパの王家の共通点など、思いがけない発見がありました。
例会場のキャピトル東急ホテル周辺の縄文時代の地図を見ながら、地名の由来も説明していただきました。例会場周辺はパワースポットであるというお話に、参加した会員は新なパワーをもらったような心地になりました。
卓話 「脳を元気に働かせるための考え方と記憶の技術」
ライフアセットコンサルティング株式会社 代表取締役 菱田雅生様
2019年12月12日
皆さま、こんにちは。ご紹介いただきました菱田雅生です。
「脳を元気に働かせるための考え方と記憶の技術」というお話をします。
よりよく脳を働かせる考え方を説明し、たった5分で15個の単語を完璧に順番通りに記憶できるという記憶法を体験していただきます。
皆さん、自分は元々記憶力が悪い、頭が悪いとか、能力は遺伝で決まっている、年齢と共に記憶力は悪くなる、暗記や勉強は大変で辛いものだ、能力や記憶力の要領には限界がある、と思ったことはないでしょうか。これは全部間違っています。
人間の能力や記憶力には、とてつもない力があります。しかし、その使い方をよく知らないので上手に使いきれていません。年を取っても記憶力は衰えません。年を取ると興味があることと無いことの区別がはっきりして、興味のないことは覚えません。人の顔と名前が覚えられない理由はその人に興味が無いからなのです。能力は遺伝によってだけでは決定されませんし、能力や記憶力の容量に限界はありません。暗記や勉強はとても楽しいものなのです。
9年前に米国のタフツ大学のアヤナ・トーマス先生が行った実験があります。20代と60代の人たちに50個の単語を渡して覚えてもらいました。一つのグループには心理学のテストですと言って覚えてもらい、もう一つのグループには記憶力のテストですと言って覚えてもらいました。覚えてもらった後で、50個の単語が書いてある新しい紙を渡して、先ほど覚えた単語と同じ単語があれば丸をつけてもらいました。すると、心理学のテストだと伝えたグループは20代も60代もほぼ同じ正答率でした。一方、記憶力のテストだと伝えたグループは60代の正答率が低かったそうです。 これは、年と共に記憶力が悪くなるという思い込みによるものです。そう思い込むとそうなってしまうのです。
では、記憶の実験を始めます。これから私が言う15個の単語を覚えていただきます。覚えてもらったあとで、私がどうぞといったら書いていただきます。番号と言葉が合っていたら2点、言葉が出てきたら1点と採点します。15個ですので30点満点です。 記憶のやり方をまだお伝えしていないので、今の状態でチャレンジしてみてください。
1番 灯台、2番 金網、3番 王様、4番 ハート、5番 サイコロ、6番 ハチ、7番 標識、8番 ホッカイロ、9番 博多ラーメン、10番 しずかちゃん、11番 水戸黄門、12番 広場、13番 教会、14番 牛タン弁当、15番 佐渡島、以上です。
エビングハウス博士の忘却曲線をご存知ですか。人間は記憶したものの量を時間の経過に比例して忘れていくのではなく、一気に忘れてしまうようです。一日経つと7割は忘れるそうです。 私たちの脳にある短期記憶は2,3分で消えるようです。
では、先ほどの15個の単語を書いてみてください。(会員は回答記入)
30点満点の方は、さすがにいらっしゃらないようですね。 後でやり方をお教えします。
次に20個の単語の瞬間記憶、皆さんに出していただいた20個の単語を私が完璧に覚えてみせます。1番から20番まで順番に言うことが出来るし、20番から遡ることもできるし、何番と聞かれたらその単語を答えるし、単語を言われたら何番と答えます。
(菱田氏の記憶術デモンストレーション)
ここで私が覚えた20の単語は長期記憶の中に入れる方法で覚えたので、1,2週間は忘れません。これは私が記憶のセミナーの講師だから出来るというわけではありません。皆さんも2日間の本講座を受ければ全員できるようになります。やり方があるのです。
よりよく脳を働かせる考え方には6つのポイントがあります。
① 「できる」という自信と決意。プラスの言葉を使う
② 好奇心と集中
③ イメージと感受性
④ 目的とビジョン
⑤ 反復
⑥ きちんと理解する
プラスの言葉を使うのは重要です。「無理」「難しい」「苦手」というと思考が止まってしまいます。好奇心を持って物を見ると脳は年齢に関係なく元気になります。はっきりイメージすると脳に残る仕組みになっています。1週間前の昼ご飯は覚えていないのに、何年も前にレストランで食べた美味しかったご飯をなぜ覚えているかというと、感情が動いているからです。目的やビジョンがあると脳は元気に働きます。反復することで非常に大きな刺激を脳に与えます。そしてきちんと理解したことは忘れないという仕組みになっています。
さて、先ほどの15個の単語をストーリー法で記憶するという技法で皆さんの脳の中に入れます。記憶の技法は6種類ほどありますが、その中の一つの技法です。物語のように単語をくっつけますので、頭の中で思い浮かべてください。
灯台の先から金網が出ていて、王様がぐるぐる巻きにされていて、ハートのクッションが落ちてきて、中からサイコロが出てきて、ハチが飛んできてサイコロ1個摘み上げて飛んでいったら「止まれ」という標識にぶつかって、標識が倒れてホッカイロにぶつかって、ホッカイロから砂が飛び散って、博多ラーメンに入ってしまって、しずかちゃんがキャーっと言ったら、水戸黄門が近づいてきて「お嬢ちゃんわしと何か食べに行こう」と言われ、表に出たら広場があって、広場の先に教会があって、教会の前で神父が牛タン弁当を売っていて、牛タン弁当を買って歩いていったら佐渡島が見えました。
さあ、皆さん1番から15番まで順番に言ってみてください。
皆さんが今覚えた単語は、実は意味のある単語でした。人口の多い都道府県の1位から15位だったのです。 灯台は東京都、金網は神奈川県、王様は大阪府、ハートは愛の象徴で愛知県、サイコロは埼玉県、ハチは千葉県、標識は兵庫県、ホッカイロは北海道、博多ラーメンは福岡県、しずかちゃんは静岡県、水戸黄門は茨城県、広場は広島県、教会は京都府、牛タン弁当は宮城県、佐渡島は新潟県、と、人口の多い都道府県の1位から15位になります。このような覚え方をすると記憶の干渉が起きないという仕組みになっています。
以上で私の話を終わります。有難うございました。
【卓話編集後記】
20個の単語を即座に記憶し、順番を変えても見事に再生できる菱田様のデモンストレーションに、会場では会員の感嘆の声が響きました。
また、菱田様に教えていただきながら、会員も15個の単語を短時間で覚える記憶法の実験に楽しく参加しました。
記憶力の衰えは歳のせいだと物忘れする自分を慰めていましたが、歳のせいにしてはいけない、記憶力は年を取っても衰えないという言葉に励まされました。
これからも、自信や好奇心、プラス思考を備えて、脳を元気に働かせ、記憶技術にチャレンジしたいと意欲をかきたてられた卓話でした。
卓話 「いま人気!船旅の魅力とは?」
株式会社JTB JTBクルーズ本店 マネジャー 横山憲一郎様
2019年11月28日
皆さまこんにちは。ご紹介いただきましたJTBの横山と申します。JTBクルーズ本店で、海外のクルーズのパッケージツアーやパンフレットの作成、全国のお客様にクルーズをご案内させていただく仕事をしております。
クルーズは一度乗船されると多くの方はリピーターになります。船旅は楽しい旅行であり、非常に楽な旅行です。乗船すると、最後までずっと同じ部屋で過ごせるからです。例えば、バスでヨーロッパ移動する場合、何百キロも長時間、座りっぱなしで疲れます。ところが船の場合は、夜寝ている間に移動ができるのです。
朝、港に入ると、船は日中ずっと停泊しています。観光や散策、買い物を楽しみ、夕方船に戻り夕食となります。船の中では、劇場でショーを楽しんだり、バーやラウンジでお酒を飲んだり、外国のクルーズ客船であればカジノで遊ぶこともできます。そして部屋に戻られた夜間に、船は次の目的地に向かって進み、翌朝目覚めると次の寄港地に到着しているので、身体への負担が少なく旅行ができるのです。
船旅のお客様の平均年齢は64.5歳です。60代、70代が多く、80代90代の方も乗られています。年配のお客さまが多いのは、バスや新幹線、飛行機での移動よりも、船なら楽に移動できるからでしょう。一度船に乗ると、身体の負担が少なく、船内には遊べる施設や色々なレストランがあり楽しいと実感され、次の旅行も船でというリピーターになっていただいています。
日本のクルーズ船、飛鳥IIの場合は、ほとんどのお客様が日本人です。日本語が通じるし、和食も出るし、大浴場もあるし、チップという制度もないので、日本と同じ感覚で過ごせます。一番長いものでは、約100日間で世界一周するクルーズがあります。船は飛行機ほど速くないので時差ボケを感じることがありません。飛行機で1時間の距離を船は1日かけて移動するので、時差ボケという身体への負担がなく世界各地を回ることができます。
外国のクルーズ船は、5万トンと小型の飛鳥IIに比べると大きい船が多く、10万トン、15万トン、世界最大で22万5000トンという船もあります。大きな船内にレストランが20カ所くらいあり、1500名が入れる劇場でミュージカルを楽しむことができます。
クルーズは長くて高いので自分には縁がないと思われている方が多いのですが、期間が短く代金が安いものもありますので、一度は船旅を体験していただきたいと思います。
(クルーズ紹介映像)
映像のナレーションに「何でもできる自由」と「何もしない自由」というフレーズがありました。船旅の良いところは、ご自身のペースに合わせて旅行できることです。船の中では基本的に自由です。何かをしなければいけないという場面はほとんどありません。港に着いても、船から降りるか降りないかは自由です。
船内では日中、ダンス教室や映画の上映などのイベントが用意されています。ご夫婦で乗船されても船の中では別行動という方もいらっしゃいます。つかず離れずで、食事の時だけ合流するという過ごし方もできます。
日本では年間32万人が船旅に参加されています。10年前の倍くらいの人数になっています。いずれは50万人、100万人になると言われています。人口が日本の約半分の英国では年間150万人がクルーズに参加しています。日本では、クルーズはまだ身近な旅行ではないかもしれませんが、いずれは多くの人が参加する身近なものになるのではないかと思います。
船旅というと、タキシードやドレスが必要、晩餐会が毎日というような堅苦しいイメージがあるかもしれませんが、今のクルーズは違います。日中は普通の恰好で構いません。クイーン・エリザベスであっても飛鳥IIであっても、Tシャツや短パンのような、リゾートホテルで過ごすような服装で全く構いません。夕食の時間にはドレスコードが設けられています。しかし、毎日タキシードやドレスを着る必要はなく、普段の服装での夕食が半分以上です。1週間程度のクルーズであれば2回ほどドレスアップする夕食がありますが、男性は普通のスーツにネクタイ、女性はスーツかワンピースで構いません。思ったよりも堅苦しくなく、楽しんでいただけるのが今のクルーズです。
外国のクルーズの場合は、お客様の98%程度が外国人ですので、船の中では英語になります。英語は苦手という日本のお客様のために、各旅行会社の添乗員が色々とお手伝いいたします。今では横浜や神戸から乗船できる外国のクルーズ船が増えており、その場合は日本のお客様が多くなり、あまり言葉の心配をせずに楽しんでいただけます。
船内では、朝のラジオ体操から始まり、マッサージやクイズ大会、チェスの大会、ダンス教室など沢山のイベントが催されています。クルーズの代金には、朝昼晩の食事や船内でのイベントがすべて含まれています。クルーズは高いと思われがちですが、色々なものが代金に含まれているのでお得です。
一度ご参加いただけると、新たな旅行の選択肢の幅が広がるので、近い将来のご旅行の中に船旅を加えていただければ大変ありがたいと思います。
私からのお話は以上となります。 誠に有難うございました。
質疑応答
Q: 一人で参加しても船旅を楽しめますか?
A: おひとり様、特に女性1名での参加は多いです。女性に比べると、男性1名の参加は少ないほうです。部屋はツインを使うので少し割高の代金になります。船内では「おひとり様大集合」という出逢いの場を設けるイベントもあります。
Q: 船内でのトラブルや困ったことについてお聞かせいただけますか?
A: 日本の船では高齢のお客様が多いため、自分の部屋がわからなくなって夜中に徘徊されたり、最後の夜に荷物を全部入れてスーツケースを出して、翌朝、着替えがないことに気づいて、パジャマのまま下船される方が時々いらっしゃいます。事前にきちんとご案内しなくてはと思います。
Q: 瀬戸内海のクルーズについて話を聞かせてください。
A: 風光明媚な瀬戸内海ですが、以前は夜しか通れませんでした。今は日中も通れるようになり、外の景色をご覧いただけます。ただ、狭いところに定置網などが張られているので、船が通れる時間は厳しく制限されています。瀬戸内海に限らず、船が通れる道や時間はかなり制限があります。船長や乗組員に話を聞くと色々教えてくれるので、それも船の楽しみの一つかと思います。
【卓話編集後記】
今回の卓話では、クルーズの旅の魅力を、映像を交えてご紹介いただきました。クルーズの過ごし方には「何でもできる自由」と「何もしない自由」があり、各人が自分らしい旅を楽しめること、特に、時差ボケに悩まされずに各地を回ることができるのは、とても魅力的だと思いました。幅広い人々のニーズに応えて、高齢者も独身者も楽しめるイベントが用意されており、家族や友人と一緒に参加しても、一人で参加しても十分に楽しめるというクルーズの旅に、出席された会員の方々も大いに関心を持たれたようでした。
卓話 「病は気からを科学する」
NPO法人医療制度研究会副理事長 本田宏様
2019年11月21日
皆さん、今日は歴史ある東京山の手ロータリークラブでお話させていただけるということで、短い時間ですが頑張ってお話したいと思います。
私は福島県で生まれ、父が開業した小さな洋品店の息子として育ちました。高校3年生の秋まで、将来の夢はパイロットでしたが、母に反対され、泣く泣く夢をあきらめて、青森県の弘前大学を卒業して医師になり、東京女子医大、その後埼玉県の病院でも勤務をし、現在に至っております。
私は2002年7月から医療再生の活動をしてきました。日本では、医師不足と病院の赤字を理由に公的病院の再編統合が進められようとしています。日本の医師不足を、国は医師の偏在が問題だと言っていますが、日本の医師数はOECD加盟国平均を大きく下回っています。それにもかかわらず、厚労省は、医師が将来余ると言って医学部の定員を削減してきました。私は非常に理不尽だと思ってこの活動を続けています。
それでは、今日のテーマ、精神神経免疫学のお話に入ります。
私たちはストレスを脳で感じます。常に目から入る情報や、暑い寒い痛いといったストレスが脳に入ってくると、自然と内分泌、ホルモンや免疫が作動します。分かりやすい例をご紹介します。1995年の阪神大震災の際には心筋梗塞で亡くなった人がたくさんおられました。震災で亡くなる方の中には、火事とか家屋の倒壊だけでなく、ストレスによる心筋梗塞という方も少なくなかったのです。 私はこの当時、埼玉県の済生会栗橋病院で外科医として働いていましたが、「仮設住宅孤独死、83人」という新聞記事を見て、恐らく高齢の方が亡くなっているのだろうと思って読み驚きました。働き盛りの男性が多かったのです。男性はどうしても孤独になりがちです。 社会からの孤立は、肥満、運動不足、喫煙と同じくらい健康に害を及ぼし死亡のリスクが2倍になる、群衆の中の「孤独」が人をむしばむと言われています。ちなみに貧しくても健康長寿のコスタリカには、強い社会的な絆があるそうです。
今日は、私の話に笑いが少なくて申し訳ないのですが、いつもは冗談を言いながらお話しています。 というのも、笑いは免疫に直接影響するというデータが数多く出ているからです。
私たちの体の中では毎日がん細胞が生まれていますが、がん細胞を殺す免疫細胞であるナチュラルキラーが夜寝ている間にがん細胞をやっつけてくれます。このナチュラルキラーは笑うと活性化するのです。「なんばグランド花月」でお笑いを聞いた癌の患者さんの、笑う前と笑った後のナチュラルキラー細胞を調べたところ、笑った後で機能が上がったという研究結果は有名です。
また、林家木久蔵さんの落語をリウマチの患者さんに聞いてもらい、前後で痛みのチェックをしたところ、落語を聞いた時の方が、鎮痛剤服用後よりも痛みが軽減し長く持続したという研究結果も出ています。「楽しい笑いは副作用のない薬」です。林家木久蔵さんの色紙に「よく笑うヒト 人生の達人」とありますが、健康に生きるためには笑って生活した方が良いのです。
何故私がこのようなことに興味を持ったのかと言うと、医師不足が関係しています。私は東京女子医大で腎移植、肝臓移植を研究して、移植外科医になりたかったのですが、日本は先進国の中で臓器提供が一番少ない国なので、臓器移植で貢献したいと思ってもできない。それで埼玉県の病院で、一般外科で多くの患者さんを治療するようになりました。医師不足ですから、外科医は乳癌の疑いのある患者さんのしこりの診察をすると、そのあと細胞診、手術、術後の抗がん剤投与、万が一再発した時には鎮痛剤の投与、そして最後のお見送りまで担当するということが普通だったのです。一人一人の患者さんに向き合いながら、あるとき、乳癌の患者さんの気持ちと病気の進行に関係があるのではないかと思うようになりました。ある時、1985年の『Lancet』という権威ある医学雑誌で、乳癌の患者さんの術後3か月の心理状態によって長期生存率が異なるというデータを見つけました。5年、10年、13年の生存率で見ると、一番早く亡くなるのは絶望する人、二番目は受け入れる人、素直な人、三番目は否定する人、そして一番長生きできたのはファイティングスピリットがある人でした。そしてこの生存率の差は、抗がん剤治療によるものよりも大きかったのです。私は、患者さんが前向きになれるように協力をして治療にあたることができれば、副作用もお金も少なくて済むかも知れないと考えて勉強を始めました。ただ、患者さんの精神状態は血液検査やレントゲンと違って、簡単には確認できないので、一般の医学界ではほとんど無視され、関心も持たれませんでした。
しかし、2002年に、世界的に有名な腫瘍内科医の上野直人さんが、「〇〇癌センター等、名前に癌がつく病院の治療成績が、全国平均より良いのは、始めから患者さん自身が癌と知り、強い意欲と希望をもって治療を受けていることが影響していると考えられる」ということを日本の学界で指摘され、私はとても勇気づけられました。 さらに、2008年の『Cancer』という医学雑誌に、「心理学的介入は乳がん患者の生存を改善する」という研究結果が掲載されました。さらに、今年(2019年)岡山大学の神谷先生は、ストレスと乳がんの関係について研究をされ、交感神経の密度の高い人、すなわち緊張状態にある人は、「術後の再発や死亡率が高いことを確認した」、「交感神経を刺激すると、がん細胞が増殖し、転移も増え、交感神経を除去すると抑制」という内容のデータを発表されています。つまり私が長年考えてきたことが証明されつつあるのです。
長生きする方法、健康に生きる方法は男と女で微妙に異なるようです。和歌山県立医大循環器内科の先生が調べたところ、循環器疾患で死亡率が上昇する危険性が高まるのは、男性の場合は「生きがいの欠如」、女性の場合は「人に頼りにされないこと」でした。
また、人間の追及する二つの幸福と健康の関係を示す、大変興味深いデータを見つけました。一つは「生きがい追求型幸福」、もう一つは「快楽追及型幸福」です。 大好きな人のためにケーキを作るのが前者で、大好きなケーキをお腹いっぱい食べるのが後者で、本人にとってはどちらも幸せです。しかし、精神神経免疫学的な調査の結果、後者の幸せは、身体がストレスを感じているときと同じ反応を示すことが判明しました。まさにアリストテレスが残した「最高善こそが幸福」という言葉が近代科学で証明されたのです。
乳癌を患いながら映画『ゴルダと呼ばれた女』に出演し女優賞を取ったイングリッド・バーグマンも手記に「最後まで闘うことをやめません」と書いています。レオナルド・ダヴィンチの言葉にも「充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす」とあります。法然上人の「知足」、足るを知る。中国のことわざには、「一生の幸福が欲しいなら人を助けなさい」という言葉があり、ジェラール・シャンドリの言葉に「一生を終えてのちに残るものは、われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものである」とあります。まさに、ロータリークラブの皆さまの活動にぴったりだと感じております。
ご清聴ありがとうございました。
【卓話編集後記】
本田先生には、免疫機能に対する笑いの影響を医学的なデータに基づいてご説明いただき、日常生活に笑いを取り入れることが健康維持のために大切であることを痛感しました。ユーモアあるジョークを交えた本田先生の卓話で、大いに笑った会員の免疫機能はきっと向上したに違いないと感じた卓話でした。
また、医師不足という日本が抱える問題についてもお話いただき、日本の医療について考えるきっかけにもなりました。
卓話 「出逢い・感謝 ボクシングのおかげで」
日本ボクシングコミッション試合役員会 会長 吉田和敏様
2019年10月17日
本日はお招きくださいましてありがとうございます。
只今レフェリーの資格でご紹介いただきました。レフェリーのシャツの色は白ですが、太めの僕は昔の青いシャツを着てきました。靴は選手と同じゴム底のリングシューズです。選手と接触して怪我をしないように金属類のベルトや眼鏡をつけてリングには上がれません。結婚指輪が抜けなかったために、僕はレフェリーの資格をとってもリングの下で採点するジャッジばかりしていました。減量して指輪が抜けてレフェリーもできるようになりましたが、それ以来結婚指輪は外したままです。
本日は、ボクシングをしていた現役時代を中心にお話しいたします。
高校生の時は何日も学校をさぼり、両親に心配をかけました。せっかく入った硬式野球部も退部して、充実感のない高校生活を送りました。大学生になって、もう一度運動部に入ろうと思いボクシング部を選びました。2年生まで勝てなかったのですが、人と同じことをしていたら人と同じだ、人が一やるところを二やれという父の教えに奮起して人の三倍やりました。名選手の本を何冊も読んで研究しました。「どんなボクサーも長所を持っている。その長所を伸ばせ」という僕にぴったりの言葉がありました。僕はスタミナとパワーが人より優っているので、毎日30キロ走りこみました。さらにラッキーな出来事は、誉め上手の親友との出逢いでした。彼の誉め言葉のおかげで試合に勝てる自信がどんどん膨らんでいきました。
大学3年の時の決勝戦はちょうど父の日でした。一生懸命頑張っている姿を、それ以上に優勝する息子の姿をどうしても見せたいと思い父を招待しました。相手から顎を2か所も骨折するほどの強烈な右アッパーカットを食らいましたが、歯を食いしばって打ち返し2ラウンドで相手をノックアウトしました。試合後にリングを下りて父の元に駆け寄ると、父は嬉しそうに最高の笑顔を見せてくれました。
大学3年の秋にボクシング部のキャプテンになり、誰よりも一生懸命練習して部員を引っ張っていきました。そのおかげでボクシング部はまとまっていましたが、僕自身は学生の本分である学業に問題を抱えていました。大学に入った時に父と二つの約束をしていました。一つは大学を4年間で卒業すること、もう一つは卒業までに日商簿記検定二級を取ることでした。そこで、大学4年の時は練習を1日おきに途中で切り上げて神保町の簿記学校に通い、父との約束を果たしました。
大学4年の時の決勝戦の相手は東京大学の選手でした。当時の東大は赤門パワーと言われてスポーツが強かったのです。僕の対戦相手は20戦以上無敗の早稲田君、「東京大学の早稲田君のケーオー勝ち」というアナウンスが当時話題になった選手でした。僕はボクシング部のキャプテンとして先頭に立って練習がしたいと思い、決勝戦の10日前に簿記学校の欠席届の用紙を父に差し出しました。「どっちが大事なんだ!」を怒鳴られるのを覚悟していたのですが、父は引き出しの中から初めて見るハンコを取り出し、「これが一番縁起がいいハンコなんだぞ」と言いながら欠席届に押してくれました。早稲田君との決勝戦には自分の持っている最大のエネルギーでぶつかり2ランドKO勝ちで優勝しました。
大学卒業後、大きなグループ企業に就職してレストラン部門に配属されました。ボクシングは学生時代の良い思い出として終えたつもりでした。しかし、友達からのプロボクサーへの誘いに少しずつ気持ちが動き、ただ一度きりの人生で自分の可能性に挑戦したいと思いました。プロボクサーを目指してもう一度身体を鍛え直しました。でも、仕事を続けながらプロボクサーとして成功するのは無理でした。すると父から家に帰ってくるならボクシングをやってもいいぞと言われました。但し、25歳になるまでという条件付きでした。
こうして僕は、日本で一番古い名門の帝拳ジムに入りました。このジムには23歳の若さで亡くなった世界チャンピオン大場政夫を母親のように厳しく温かく育て上げたマネージャーの長野ハルさんがいました。長野さんはみんなからお姉さんと呼ばれていてプロボクサーになった僕のマネージャーでもありました。
23歳の6月4日、僕はプロデビュー戦を迎えました。応援に来てくれた両親や恩師をはじめとする50人以上の人たちの前で、相手をノックアウトするはずでした。しかし、1分46秒でノックアウトされたのは僕でした。試合後真っ先に長野さんの元へ行き「お姉さん、すみませんでした」と謝りました。すると、長野さんは一言だけ「今日はなかったことにしましょう」と言ってくれました。この言葉に救われました。恩師の宮崎先生からは「吉田君、逆境にあったときに本当の人間性がわかるんだよ」と言われて、思わず涙をこぼしました。
その後、しばらくは、朝はロードワーク、夕方まで仕事、夕方からボクシングジムで汗を流し、夜は本社で仕事という元の生活に戻りました。でも時間が経つにつれ、だんだんさぼるようになり、朝は走らなくなり、夕方はスポーツバッグを持って家を出てもジムには行かず、時には一杯飲んで帰るようになりました。こんな姿の僕に、ある朝母が大きな声で「走らないのか!負けたままで悔しくないのか!」と叱りました。この一言で僕は生まれ変わりました。そして屈辱の敗戦から8か月後24歳の時、僕はプロ第二戦目の1ラウンド1分4秒で相手をノックアウトしました。この試合には誰も呼ばなかったのですが、父が一人で後楽園ホールに見に来ていました。家に帰ると母が笑顔で出迎えてくれました。父も、かつての父の日と同じ最高の笑顔でした。
三戦目からは学生時代と同じ快活な自分に戻り、「必ず勝つから見に来いよ、試合の後はみんなで飲み会だ」と決まり文句で友達を誘って足を運んでもらいました。自分自身にプレッシャーをかけて負けられない状況を作り、有言実行しました。しかし、10月10日の東日本新人王選手権準々決勝で、ゼロ対2の判定で負けてしまいました。3日後に僕は25歳になりました。もし勝っていたら、頑固な父を説得してもう少しボクシングを続けていたでしょう。でも今は、これで良かったのだと思います。
ボクシングを離れてしばらくして、あの朝母が僕を叱りつけたのは、ボクシングで得た自信や信念をボクシングで失わせてはいけないという親心からだとわかりました。あのときは厳しい母だと思いましたが、今は心から感謝しています。
そして、今、ボクシングに対する感謝の気持ちを込めてJBCレフェリーとしてリングに立っています。試合前にレフェリーがリング中央で選手に何を話しているか知っていますか。決まり文句はありません。細かい注意は選手の耳に入りません。ですから大切にしている気持ちを言います。「JBCルールを守り、ベストを尽くして、悔いを残さないように頑張って」と。
最後に大好きな相田みつをさんの言葉を聞いてください。「人の世の幸不幸は人と人が逢うことから始まる よき出逢いを」
ありがとうございました。
【卓話編集後記】
東京足立ロータリークラブの会員でいらっしゃる吉田和敏様に、ボクシングを通して経験されたこと、学ばれたこと、家族とのつながり、いろいろな人との出逢いなど、心温まるお話をしていただきました。卓話の途中、ジャブやストレートのポーズを教えていただくなど、みんなで体を動かしながらの楽しいひとときとなりました。ご一緒に参加してくださった奥様の優しい笑顔、仲睦まじいお二人のお姿もとても印象的でした。
卓話 「輝く瞳に会いに行こう」
タイ王国立ダムロンラドソンクロ高校日本語教師 原田義之様
2019年9月26日
皆さんこんにちは。 只今ご紹介いただきました原田義之です。
私は現在、タイ王国立ダムロンラドソンクロ高校で日本語教師を12年間続けておりま
す。 教壇に立つ傍ら、休日にはミャンマー・ラオス・タイの国境地域のアカ族の子ど
も寮「夢の家」ほか4つの寮において識字向上支援をしております。
現在、アカ族が住む北タイのチェンライロータリークラブの会員でもあり、2013年7月から1年間第47代会長を務めました。会員全員が現地のタイ人のクラブで日本在住の日本人が会長になったのは、タイのロータリー史上、私が初めてです。
私がアカ族の子どもと出会ったのは、25年前に遡ります。私が勤務していた神戸の会社がタイに工場を作ることになり、訪問したバンコックのホテルのテレビで、北タイ、チェンライの子どもたちがバンコックのNPOから図書を受け取る姿を見ました。引率の先生も子どもたちも粗末な服装でしたが、図書を受け取る子供の瞳は輝いていました。当時私が国際奉仕委員長を務めていた2680地区高砂青松ロータリークラブの国際奉仕予算は10万円、この10万円でタイの図書を買えば、貨幣価値の違いから、50万、60万円相当の図書が買える。そう考えて早速830キロ離れたチェンライに飛びました。
情報もなく、タイ語の読み書きや会話ができない私は、空港でタクシーの運転手に一番古くて有名なホテルに連れて行くように頼みました。到着したワンカムホテルでロータリアンであることを伝え、社長に面談を求めました。初対面のウン社長は、私を10年来の既知の友であるかのように迎えてくれ、その日の夜には7名のロータリアンに紹介され、私のアカ族子ども支援が始まりました。私は、ロータリー入会30年ですが、あの時ほど、直径1センチ、重さ20グラムに満たないこのロータリーバッチが持つ重みを感じたことはありません。
15年間に北タイの36の小学校に図書寄贈を行いました。北タイには様々な民族を抱える学校が多数あります。 図書寄贈の会場でアカ族の青年アリヤさんから、識字のないアカ族の子どもは重労働や麻薬の運び屋、売春といった職につけられている、どうか識字向上支援をしてほしいと懇願されました。
当時64歳の私はロータリーの奉仕の心、奉仕の行動で貧しいアカ族を助けてあげようと決断しました。 早速、週末には、兵庫県国際協会主催の外国人向け日本語講座に通って全課程を終了し、三宮のタイ語教室でタイ文字を覚えました。
そして、北タイ、チェンライの国立ダムロンラドソンクロ高校に行き、この学校で子どもたちに日本語をタイ語で教えさせてほしいと校長に直訴しました。 以来12年間無報酬でボランティア教師として今も教壇に立っています。国立ダムロンラドソンクロ高校は、私の長年の奉仕に対してダムロン日本文化センター原田義之記念室を開設してくれました。
アカ族は、800年前は中国平野部に住んでいましたが、蒙古の襲撃を受けてチベット山中を移動する回遊民族と化して南下を続け、400年前には中国雲南省、100年前に北タイに達しました。 第二次世界大戦の終結によって国境が定まり、それまでの焼き畑農業と母国語のアカ語を禁じられました。生活手段と言語手段を奪われるという最も深刻な差別を受けたのです。
アカ族の月収は1万円、学校は彼らが住む山岳地帯から20キロも30キロも離れていて、子供に識字教育ができない状況です。 国連が規定する識字率は、その国の15歳以上の婦女子が母国語を使える割合です。タイの識字率は92.8%と非常に高いのですが、アカ族の識字率を調べると56%でした。この識字率の低さからアカ族の子どもは、低賃金の労働に従事するか、麻薬の運び屋になるか、売春するかといった現実に直面しています。
ロータリークラブの識字向上支援の重要性、必要性をご理解いただけるでしょうか。教育こそがただ一つの解決策なのです。私にとって、識字向上支援とは単に母国語であるタイ語を学ぶだけではありません。さらに学び続けて優秀な人材に育て上げることが、識字向上支援です。
ダムロン高校の私の教え子であるアカ族の子どもフレンドさんは、高校3年間日本語でトップの成績を修めました。しかし、それ以上の進学を考えていませんでした。 私は彼女を日本に留学させたいと思い、親を説得し、日本各地で彼女の留学引受先を探し求めました。いわき平中央ロータリークラブのロータリアンの支援で、その夢は実現し、フレンドさんは10か月間日本に留学し、日本語検定3級を取って帰国しました。帰国後、日本で私の奉仕を支える「アカ族子供支援基金」の奨学金を受けてラチバット大学日本語科4年で学業トップを修めています。そして、この度日本政府招聘留学生として、国立愛知教育大学に1年間留学することになりました。
このような私の奉仕を見守ってくれた全国のロータリアンが原田を支える会が「アカ族子ども就学支援基金」です。私の著書『輝く瞳に会いに行こう』と1年前に書いた『続・輝く瞳に会いに行こう』の印税をこの基金に入れております。 この基金は里親制度も設けています。
衛生面での支援としては、アカ族の子ども寮にトイレ設置の支援を行い、15の村に浄水器を設置して水支援を行ってきました。 この浄水器の支援によって、水源を巡る民族の争いが解決されました。
私の活動に対して批判や中傷もありました。 しかし、小さな奉仕の心でロータリアン活動をしていきたいと考えて、行動する奉仕として全国で講演しています。
私は再び今月末からアカ族の子ども支援でタイに入ります。 私の目の前のアカ族の子どもたちが、麻薬の運び屋や、売春、そしてエイズを患うような、悪の予備軍になってほしくないからです。
ロータリークラブに入って、奉仕の大切さとすばらしさを教えていただき目覚めることができました。 これからも、日本人、一人のロータリアンとして、北タイの貧困最前線に身を置いて、微力ながら役立って参りたいと考えています。
ご清聴ありがとうございました。
【卓話編集後記】
25年前に出会ったアカ族の子供たちを支援し続ける原田先生から、「アイ サーブ」のモデルと言える国際奉仕の実例をご紹介いただきました。原田先生の卓話を聞くために、アカ族支援活動を応援されている20名以上のロータリアンの方々が福島、京都、岡山など各地から参加してくださり、数多くのクラブとバナー交換ができました。例会場は、奉仕の大切さを再確認するロータリアンの温かいつながりに包まれました。
卓話 「言語と文化―日本語の特徴―」
東北大学大学院教授 江藤裕之様
2019年9月5日
皆さん、初めまして。江藤と申します。
今日は、日本語の特徴、言語と文化というお話をさせていただきます。
少なからずの日本の大学、特に大学院では、少子化の影響を受けて学生の募集に苦労しています。そこで頼みの綱となるのが留学生です。私は、大学院で「言語と文化」という演習を担当しており、受講生には留学生も多数います。日本語は難しいかと尋ねると、ほとんどの留学生は、話すことはさほど難しくないが、漢字や色々な表記法があるので書くことは難しいと答えます。また、同意語が非常に多いことも日本語を難しくしているようです。
例えば、「私は( )を食べた」のカッコに入るのは「イネ」「コメ」「ゴハン」のどれでしょうか。正解は「ゴハン」です。ところが「私は( )を植えた」になると、正解は「イネ」になります。でも、「パンばかり食べないで、コメを食えよ」と言ったりしませんか。英語ではいずれもriceでよいのですが、日本語では「イネ」「コメ」「ゴハン」と区別されるのです。日本語を勉強している外国人にとって難しいのが、このような単語の選び方です。もちろん、逆のことが英語を勉強している我々にも言えますね。
中国人が悩むのは漢字の読み方です。中国では一つの漢字には基本的に一つの読み方しかありませんが、日本では多くの読み方があります。例えば、「生」という漢字には、「生の肉」「楽しく生きる」「草が生える」「子が生まれた」「人の一生」「生活が苦しい」「生糸」といった読み方があります。中国人留学生に、これらをどう区別するのかと尋ねたところ、そのまま、このコンテキストの中ではこう読むという風に覚えるのだそうです。
日本語の漢字の読み方には音読みと訓読みがあります。この二つを我々はなんとなく微妙に使い分けています。
例えば、「草原」は、「そうげん」とも読めるし「くさはら」とも読めます。この二つの読み方にはニュアンスの違いがあります。「そうげん」は雄大な広さを感じ、「くさはら」だと近所のコオロギやバッタがいる空き地が思い浮かびます。「市場」を「しじょう」と読むと大きな青果市場や株式市場、「いちば」と読むと買い物かごを下げて出かけていく八百屋とか果物屋、魚屋、スーパーマーケットになります。
「そうげん」や「しじょう」という読み方と「くさはら」や「いちば」という読み方に、どのような違いがあるかを考えてみると、大和言葉である「くさはら」や「いちば」は生活に身近なものであり、「そうげん」や「しじょう」は漢字が頭に浮かばないと分からない、少し離れた遠い感じがあります。
このように、まず大和言葉があり、次に漢語があり、明治以降にはおしゃれな響きのあるヨーロッパの言葉が入ってきました。
私が学生の頃に住んでいたところは、「〇〇荘」というような名前がついていました。ずいぶん前から市民権を得ている言葉のひとつが、「マンション」ですが、このマンションという言葉が大きな誤解をもたらすことがあります。アメリカ人にマンションと言うと豪華な邸宅を思い浮かべます。「マンションを買ったよ」と言うと「おお、すごいな!」というわけです。私たちの住んでいるようなマンションは英語ではコンドミニアムやフラットという言い方をします。さらに、マンションではあきたらず、最近では、メゾン、カーサ、ハイムというような英語以外の言葉も使われるようになってきました。なんとなくおしゃれな感じがするからです。
また、アジェンダ、アセスメント、アカウンタビリティ、スキームなどの言葉が使われるようになり、カタカナ語が氾濫して由々しきことだと嘆く方もいるようですが、このような語彙の流入は、その国語を豊かにするので、文法が変わらなければ、さほど嘆くことではないでしょう。
日本語の三層の同意語、すなわち、大和言葉、漢語、西洋語と分けて考えると、大和言葉は心に響く言葉で、話し言葉でよく使われます。漢語には形式ばったところがあり、レポートなんか書くときはこちらを使います。西洋語はおしゃれな感じがしますが、少し突き放したような感じがあり、さっきあげた「アジェンダ」のように仲間内だけで専門用語のように使われることが多いかもしれません。
日本語と日本文化の特徴の一つは、大和言葉には語彙が少ないことです。例えば、自分が回転するのも、何かの周囲を動くのも「まわる」です。それを「回る」や「周る」のように漢字を使って区別します。語彙が少ないため同音異義語が多く、造語力が豊かです。すなわち、漢字や西洋の言葉から多くの言葉を取り入れることによって語彙を豊かにしてきたのです。
語彙が少ない日本人について、谷崎潤一郎が『文章読本』の中で、次のような考察をしています。
・国語は国民性と切っても切れない関係にあり、日本語の語彙が乏しいのは、我等 の国民性がおしゃべりでない証拠である。
・国民性を変えないで、国語だけを改良しようとしても無理である。
・漢語や西洋語の語彙を取り入れて国語の不足を補うことは結構だが、それにも自 ずから程度がある。
日本人は人前で自分の意見を述べるのに慣れておらず、人前でしゃべることを良しとしない気風があるのではないでしょうか。日本人が英語を勉強してもベラベラしゃべることはできないのです。寡黙で、黙っていても通じる、相手が察してくれるというのが日本の文化です。日本語の構造は少ない言葉で多くの意味を伝える、つまり、沢山の言葉を積み重ねることはせず、察する、沈黙の文化なのです。
これを端的に表すキャッチコピ―を最後にご紹介します。
「男は黙ってサッポロビール」
母語を振り返るというお話でした。 ありがとうございました。
【卓話編集後記】
江藤教授の卓話を通して、留学生の視点からの日本語の特徴や難しさに気づかされ、普段私たちが意識せずに何となく使い分けている言葉の区別について認識することができました。グローバル化が進む社会の中で、言葉にも様々な影響が出ていることや、言葉と文化のつながりの深さを考えさせられ、私たちの母語である日本語を改めて見直す機会になりました。江藤教授のテンポのよい卓話に例会場は笑いに包まれ通しの楽しいひと時でした。
卓話 「ポリオの会と私 今私にできること ~そして世界のポリオ根絶に向けて私にできること」
ポリオの会 世話役 丸橋達也様
2019年8月29日
皆さま初めまして、丸橋と申します。
本日は、卓話の機会を与えていただき本当にうれしく思います。
私は1965年昭島市に生まれ、生後7か月の時にポリオの生ワクチンの定期接種を受けました。約2週間後に高熱が出て、おむつ替えの時に左足がパタンと落ちてしまうことに気づいた母が病院に連れて行き、検査の結果、ワクチンによるポリオと診断され、隔離病棟で2カ月間の入院をすることになりました。
ポリオの生きたウィルスを弱めたものを身体に入れて抗体をつけるのが生ワクチンです。1960年頃に日本ではポリオが大流行し、母親たちがワクチンを海外から緊急輸入するように厚労省に押しかけて要請し、ポリオの流行を収めたという歴史があります。生ワクチンは有効ですが、まれにポリオの症状が出てしまうリスクがあり、それが私のような生ワクのポリオです。一方、病原性をなくした状態の不活化ワクチンというものがあり、これは麻痺を起こすことはありません。しかし、コストが高いこと、医療従事者による注射での接種、注射器の廃棄の問題がデメリットとしてあります。
母子手帳に「生ワク投与」というハンコが押してありました。これが私の運命の日となりました。母が作ったアルバムには、昭和41年5月9日から7月5日まで約2か月間入院したこと、両親にとって一生忘れることができない悲しい時期であったことが書かれていました。自分が子供を持つようになってわかるのですが、やはり親が一番辛かったと思います。
退院後、小児療育病院で補装具をつける指導を受け、リハビリをしながら松葉杖で歩けるまでに回復しました。
小学校入学の時、障害者が通う養護学校から入学通知が届いたのですが、母が教育委員会に何度も乗り込んでお願いして、普通の小学校に通うことが出来ました。
その後結婚し、子供もでき、何ともなく過ごしていたのですが、40歳の時に身体の異変が少しずつ出始めました。家で転倒して右足を骨折しました。左足は麻痺があるため装具をはめていますが、右足はポリオではない普通の足だと思っていました。しかし、右足も力が入りにくくなってよろけて転んだのです。。
その後、インターネットを通じてポリオの会を知り、小山万里子代表と出会い、自分が生ワクチンのポリオという珍しい貴重な存在であることに気づきました。ポリオを分かってくれる先生と出会い、42歳の時にPPS、ポスト・ポリオ症候群だと診断されました。罹患してから30年後、40年後に再度症状が進行することがあるのです。
小山代表から色々と教えていただき、今でも生ワクによる同じ被害が出ていることを知り驚きました。安全な不活化ワクチンがあるのに、なぜ日本ではそちらに切り替えないのかと思いました。そこで、ポリオの会の活動に一生懸命参加するようになり、厚労省にも不活化ワクチンへの切り替え運動で何回も行きました。メディアにもいろいろと出演しました。
私が訴えたいことは、国が指導しているワクチン行政では、なぜ安全なものがあるのに切り替えないのかということです。私のような生ワクによるポリオが珍しい存在ならば、自分が前面に出たら説得力があるのではないかと思い、さまざまな活動を始めました。
例えば、模擬患者として大学の授業に参加したり、理学療法士の学校でポリオのことを伝えるなど、ポリオを知ってもらうための活動をしています。国を動かそうという思いで何度も議員会館に行きました。ユニセフ議員連盟を訪ね、日本にもポリオ患者がいることを伝えています。ワクチンメーカーの社内研修でも話をさせていただいています。厚生労働省が主体となって3都市で開催される「シーズ・ニーズマッチング交流会」にポリオの会のブースを出して、より良い福祉機器を製作してもらうための活動もしています。明日からは福岡で開催される外来小児学会に行ってブースを出します。リハビリテーション科の先生がたくさんいらっしゃる義肢装具学会にも参加しています。
こうした活動が認められ、先日、社会貢献支援財団から「ポリオの会」が表彰を受けました。式典では、財団の会長安倍昭恵夫人と写真を撮らせていただいたり、とても光栄な賞をいただき、良い思い出になりました。
生ワクチンによる健康被害を受けた人たちの写真に小さな女の子が写っています。この子もポリオですが、症状が重くて色々な障害が出ていて、かわいそうな女の子です。
この子が成長して、今私がお話ししたすべてのことを知った時に、なぜもっと早くこの活動を始めて、もっと早く不活化ワクチンに切り替えてくれなかったのかと言われたら、どうしようと思いました。早くに気づいていたらポリオにならずに済んだかもしれない。そんな子供たちが、まだまだいると思います。ですから、私はこの活動を続けて、伝え続けるということを決めました。
ロータリーがポリオ撲滅を目指して進めているEND POLIOの活動は本当に素晴らしく、世界からポリオをなくすことはとても大切だと思って参加しています。今でも世界では生ワクが使われている国があり、生ワク由来の患者が出ているということも聞いています。
私たちが考えるEND POLIOとは、最後のポリオ患者がこの世から消えたとき、亡くなったときだと考えています。その時には私たちはもういないかもしれない。でも私が伝え続けていけば、その先の人たちが伝えていってくれると考えて、ポリオの会の活動を行っています。私たちの役目はポリオに罹患してしまった患者たちを一生守ることだと思っています。
お話ししたいことはまだまだあります。どこへでも行きます、どこででも話します、どこへでも呼んでください。今のところ私は元気で動けるので、動けるうちはどんどん出かけていって話そうと思っておりますので、是非お声がけください。
有難うございました。
【卓話編集後記】
丸橋様ご自身の幼少期からの体験、活動に対する熱い想い、そして明るいお人柄があふれるお話を聴きながら、例会会場は深い感動に包まれました。また、ロータリーはポリオ撲滅を最優先課題として取り組んでいますが、日本でも未だに解決されていない身近な問題であることを知り、驚きも覚えました。
卓話後の質疑応答では、ポリオの会の小山会長にもご参加いただき、ポリオ撲滅は、単なる病気との闘いにとどまらず、複雑な課題であるという理解も深まり、10月24日の「世界ポリオデー」を前に、とても有意義な卓話となりました。
卓話 「車いすからパラリンピック、そして2020年へ」
パラリンピック ライフル射撃 元日本代表選手 田口亜希様
2019年8月8日
2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンパラリンピックにライフル射撃競技で出場した田口亜希です。
以前は自分の足で歩き、客船「飛鳥」でパーサーとしてレセプションでの接客や入出港管理など仕事にやりがいを感じながら働いていました。25歳の時、突然身体中に激痛が走り、両足が動かなくなりました。検査の結果、脊髄の中の血管が破裂して中枢神経が傷つき、一生車いす生活だと宣告されました。もう一生働けず、家の中で暮らすのだろう、脊髄の神経をつなぐ手術法が見つかるまで病院のベッドで暮らせばよいと思ったこともありました。
でも、見舞いに来た友人や同僚、上司のキラキラした姿を見て、私も何かしなければと思い直し、車いすでの生活に向けたリハビリに励むようになり、発病から2年半後にバリアフリーの整った会社で仕事に復帰しました。
その一方、同じ病院に入院していた知人に誘われて、趣味としてビームライフル(光線銃)の練習を始めました。実弾の銃は日本の銃刀法の制限がありますが、ビームライフルは銃刀法に関係ありません。そのビームライフルで成績を上げて大会で優勝し続けたところ、コーチに勧められ、所持許可を取って実銃を持つようになりました。
当時は、パラリンピックを目指していたわけではありませんが、色々な大会で好成績を出して、2年後の2004年アテネパラリンピックを意識するようになりました。2年間でランキングを上げてアテネパラリンピック、さらに、その4年後の北京パラリンピックと、2年先、6年先を考えていました。射撃でアテネパラリンピックを意識したときに、いつの間にか、目標を立てている自分に驚きました。射撃を始めて目標ができ、目標のために努力して、前進できました。自分一人の努力だけでなく、支えてくれたコーチや家族、友人、同僚のおかげです。
私の出場種目は、10メートル先の標的を狙うエアライフルと、50メートル先の標的を22口径の火薬銃で撃つライフルでエアライフルは10点圏は0.5ミリの点です。ファイナルに残るためにはメンタルの強さも必要となります。
私の現在の勤務先は日本郵船東京本社で、とても恵まれていると思います。日本では働きたくても働けない障害者がたくさんいます。障害の度合いによりますが、環境さえ整えば普通に働けることを知らない方々がたくさんいます。だからこそ、私たち障害者が、環境が整えば働けることを証明しなければなりません。そのために、私は手を抜かないことを心がけています。障害者には権利と共に義務があります。そして私は、権利や義務よりも自分で出来ることが嬉しく、心地よく感じています。
次にパラリンピックについてお話します。パラリンピックの原点は、英国のストーク・マンデビル病院のルートヴィヒ・グットマン博士が、第二次世界大戦で脊髄を損傷した兵士の治療とリハビリの一環として、また手術よりもスポーツをという理念で、1948年ロンドンオリンピックの年に開催した車いすスポーツ競技大会だとされています。グッドマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という言葉はパラリンピアンや障害者にとって非常に大切な言葉ですが、この言葉はどなたにもそして様々なシチュエーションで大切な言葉ではないでしょうか。
この大会の最初の競技は、足が不自由でも手で弓を引けるアーチェリーでした。当初は、入院患者の競技大会でしたが、その後毎年開催されて国際大会となり、1960年、オリンピックが開催されたローマで、国際ストーク・マンデビル競技会が行われ、それを現在第1回パラリンピックと呼んでいます。
その4年後、1964年東京オリンピックの後に開催された「第13回国際ストーク・マンデビル車いす競技大会」が、世界で初めて愛称として「パラリンピック」を公式に用い、第2回パラリンピックとなります。
2016年リオデジャネイロ・パラリンピックには159の国・地域・難民選手団、約4300名の選手が参加し、1964年と比べると参加国は7倍、選手は10倍以上となりました。
オリンピックには、Excellence(卓越)、Friendship(友情)、Respect(尊敬)という3つのValue(価値)があり、パラリンピックには、Courage(勇気)、Determination(強い意志)、Inspiration(感動)、Equality(公平)という4つのValue(価値)があります。
東京2020大会には、オリンピック・パラリンピック共通の3つのコンセプト、「全員が自己ベスト」、「多様性と調和」、「未来への継承」があります。
パラリンピックはスポーツ以外にも考えたり、気づかせてくれるものがあります。その中でも多様性と調和につながるのはAccessibilityです。Accessibilityとは、誰もがアクセス可能な快適な世界を作るということです。
WHOの調査では、障害者は世界の全人口の10%、妊婦や怪我をしている人、高齢者を含めると、全人口の20%がAccessibilityを必要としています。こうした人たちが、ご家族や友人にいるかもしれないと思うと、自分のこととして考えてもらえるでしょう。
2020年、それ以降に向けて、東京そして日本ではハード面のバリアフリー化が進みますが、使うのは人です。日本では、障害者用の駐車場やお手洗いを使う健常者が少なくない状況です。これは、悪意があるのではなく、知らないからです。周りに障害者がいない、障害者と共に勉強したり、働いたりする環境ではない、Accessibilityが進んでいないことが問題かと思います。
一方、障害者自身もきちんと意見を言うこと、これ不便だ、これがあると助かる、使いやすかったと伝えることが大切です。昔は言えなかったのかもしれませんが、2020年東京パラリンピック開催を契機に日本でも変わってくるでしょう。
パラリンピックの開会式8月25日まであと383日です。是非、皆様には日本各地で開催されるテストイベント大会と2020年パラリンピックにお越しいただき、選手にエールを送ってください。
2020年パラリンピックは、アスリートや障害者だけでなく、日本国民全員がチームジャパンとして一つになれる機会です。是非、ボランティアや観客として皆様に関わっていただければと思います。
そして、2020年で終わりではありません。1964年のパラリンピックでは障害者の自立や社会参加、社会貢献が考えられるようになりました。2020年東京では、2020年以降のレガシーとして様々なものが残っていくように、そして共生社会の実現に向けて、私たちも意見や思いを伝えていきます。是非皆様にもご協力いただけると嬉しいです。
【卓話編集後記】
2020年東京オリンピック・パラリンピック大会招致では、IOC委員会の前でプレゼンターを務め、現在は組織委員会のアスリート委員、聖火リレー公式アンバサダーなど数多くの役職で活躍中の田口亜希さん。25歳の時に車いす生活になっても、仕事に復帰し、パラリンピック出場という目標を持ったというお話に、勇気と元気をいただきました。来年のパラリンピック開催を待つことなく、誰もが公平にアクセスできる共生社会の実現に近づけるよう、今日からできることに取り組もうという気づきも与えていただいた卓話でした。
卓話 「世界で一つのオーケストラ ~オーケストラ・アジアのお話~」
東京ユニバーサルフィルハーモニー管弦楽団専任指揮者 稲田康様
2019年7月25日
本日は指揮とオーケストラ・アジアという世界にひとつしかないオーケストラの話をします。
コンダクターは何をしているのかというと、おそらく音楽に合わせて踊っている、私も時々踊っています。基本的には、踊りで音楽を作って発信しているのです。音楽を誘い込むと言うか、英語のinvite 招き入れる、それが指揮の極意です。無理やり音を出すのではなくて、音を聞きながら誘い込んでいます。
指揮者の勉強は楽器演奏者の勉強とほぼ変わりません。ひとつ違うのは、作曲、和声学とか音を積み重ねる学問を勉強します。和音をどう繋げるかという学問と、バッハが確立した対位法、ベートーベンが完成させたソナタ形式など、時代による作曲の変遷などを勉強します。
お手元にある「運命」の譜面は、上からフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、打楽器、第1バイオリン、第2バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスという配列になっています。指揮者はこのスコアを頭に叩き込みます。どこに何が載っているか、どういう音が書いてあるかを、時間をかけて覚えます。譜面を見て、ピアノで弾いて、歌って、叩いて、時間をかけて全部覚えこみます。普通のシンフォニーは、1曲35分くらいですが、最初はテンポ通りには譜面は見られません。ちょっと見ては考え、ちょっと見ては覚え、ということを100回も、何日もかけて繰り返します。スコアを全部覚えて、初めてオーケストラの前に立ち、この音はこうしよう、その音は素晴らしいというように、曲をinvite引き込んでいきます。そして何回も演奏し、譜面を見ていると、内容の捉え方、感じ方が変わり、譜面の中から発酵してくるような、新しい発想が浮かんできます。
コンピューターでも音を出せます。譜面を打ち込んで、楽器を選択すると、オーケストラの音が出るのですが、そこには何の感情もありません。人間は呼吸をする。その呼吸と一緒に音楽が流れていきます。歌も、吹奏楽、木管楽器、金管楽器の人たちも息を吸わないと次の音を出せません。ですから、指揮者はどういう息をさせるかが勝負です。指揮棒を速く上げると早い息になり、ゆっくり上げてゆっくり降ろすと、フーっとした音楽を出すことができる。それが、指揮者の動いている意味なのです。たくさん勉強をして、作曲家の背景、どういう時代に生きていたか、こんなテンポだということを調べて、オーケストラの前に立ちます。
「アンダンテ」というスピード記号は、「歩く速さで」という意味ですが、16世紀や17世紀と比べたら現代の歩く速さの方が速いでしょう。ですから、「アンダンテ」という記号も今の時代に合っているかを考えなければなりません。時代とともに、譜面は同じでもクラシック音楽も変わっていく、それが生きた音楽ということです。そのようにして、この指揮者は良い棒を振る、すごい音楽を作るということになります。
ベートーベンの時代には指揮法は確立されていませんでしたが、19世紀の後半に指揮法の基礎が確立され専門職の指揮者が活躍し始めました。日本では齊藤秀雄の齊藤メソードという指揮法があり、私も18才の頃に齊藤メソードを始めました。
ベートーベンの時代の音楽は35人くらいで演奏されていましたが、今は、60人、70人、あるいは100人という大きなオーケストラで演奏します。その大勢の人たちをどのようにひとつの音に呼び込んでいくか、指揮者が勉強したことをオーケストラにどう伝えて、音として出してもらうか、それが一番難しいことです。棒一つを振った時に同じ音を出せるかどうか、どういう発想で、オーケストラにどんな話をして、どんな振り方をするか、それはもう「人間力」で引っ張っていくしかありません。演奏後にブラボー!となるのを狙うのですが、色々なテクニック、技、マジック、色々な手を使うわけです。
「運命」の譜面を見ていただくと分かりますが、最初の音は休符です。八分休符がついています。それがなければ、最初から、タ・タ・タ・ターン、と振ればよいのですが、そうではなくて、ン・タ・タ・タ・ターンなのです。それをどう合わせるのかはとても難しいことです。
リハーサルの時に研究発表をしてしまう指揮者がたくさんいます。 指揮者はものすごく勉強するので、勉強したことをしゃべりたくて仕方なくなる。そうすると、肝心の練習が半分くらいになって、本番で失敗してしまいます。どういう言葉を選んで、何を言えば一番相手に伝わるかという、言葉のセレクトをしなければなりません。
ベートーベンの音「運命」を聴いてみましょう(CD演奏)。弦楽器の音しか聞こえませんが、譜面を見るとクラリネットの音があるのがわかります。こういうのは、譜面を見ないと絶対にわかりませんし、なぜクラリネットが入るのかを考えなければいけない。弦楽器だけでは、どうしても出発点の音が甘くなります。そこにクラリネットが入ると、クリアになり、輪郭がはっきりするので、そのために入れてあるのです。そういうことを発見するとすごく嬉しいですね。
最後に、世界で一つのオーケストラ、オーケストラ・アジアについてお話します。日本の伝統楽器の尺八、お琴、琵琶、三味線に、韓国の伝統楽器、中国の伝統楽器、合わせて72人の編成です。第1二胡、第2二胡、管楽器、太鼓と30種類以上の伝統楽器の編成ですが、把握するのはとても大変なことです。また、マッチングがとても難しい。どの楽器とどの楽器を合わせたらどういう効果が出るかというのは、世界で初めてなので、ものすごく苦労し、難しいことです。
オーケストラ・アジアは、20年ほど前は、年に1回、3カ国を1ヶ月程かけて回っていましたが、最近は情勢が悪く、集まることができません。ただ、オーケストラ・アジアの指揮を通じて経験したことは、やはり本気で向き合わないといけない、ということです。「本気」というのが一番大切なことで、どういう方法で相手に伝わるかはわかりませんが、中途半端では絶対に負けますから、本気で戦っていかないと、音も変わらないし、言うことも聞いてくれません。 あいつは本気だと、言わさなければなりません。
オーケストラ・アジアの音をお聞きください(CD演奏)。農耕民族の音楽です。ベートーベンの「運命」などは騎馬民族の音楽なので、私たちが聞く時はどこか緊張しています。でも、農耕の音楽では、ゆったりできます。この音楽をもっと世界に広げたいと思っています。
もう少しお話したいのですが、時間が来てしまいました。有難うございました。
【卓話編集後記】
稲田様は、2016年ロータリー国際大会がソウルで開催され、2750地区ガバナーナイトに於いて韓国の国楽管弦楽団(通常、国賓来訪時などの公式行事のみで演奏する韓国で最も権威ある楽団)の演奏、舞踏などをプロデュースされました。また、お嬢様がロータリーの青少年交換留学生としてアメリカに留学されるなど、ロータリーとは深いつながりのある方です。
卓話の締めくくりとして、ロータリーソング「四つのテスト」で、ソングリーダーに指揮の指導をしてくださり、例会会場は大いに盛り上がりました。