今回の卓話
本日はお招きくださいましてありがとうございます。
只今レフェリーの資格でご紹介いただきました。レフェリーのシャツの色は白ですが、太めの僕は昔の青いシャツを着てきました。靴は選手と同じゴム底のリングシューズです。選手と接触して怪我をしないように金属類のベルトや眼鏡をつけてリングには上がれません。結婚指輪が抜けなかったために、僕はレフェリーの資格をとってもリングの下で採点するジャッジばかりしていました。減量して指輪が抜けてレフェリーもできるようになりましたが、それ以来結婚指輪は外したままです。
本日は、ボクシングをしていた現役時代を中心にお話しいたします。
高校生の時は何日も学校をさぼり、両親に心配をかけました。せっかく入った硬式野球部も退部して、充実感のない高校生活を送りました。大学生になって、もう一度運動部に入ろうと思いボクシング部を選びました。2年生まで勝てなかったのですが、人と同じことをしていたら人と同じだ、人が一やるところを二やれという父の教えに奮起して人の三倍やりました。名選手の本を何冊も読んで研究しました。「どんなボクサーも長所を持っている。その長所を伸ばせ」という僕にぴったりの言葉がありました。僕はスタミナとパワーが人より優っているので、毎日30キロ走りこみました。さらにラッキーな出来事は、誉め上手の親友との出逢いでした。彼の誉め言葉のおかげで試合に勝てる自信がどんどん膨らんでいきました。
大学3年の時の決勝戦はちょうど父の日でした。一生懸命頑張っている姿を、それ以上に優勝する息子の姿をどうしても見せたいと思い父を招待しました。相手から顎を2か所も骨折するほどの強烈な右アッパーカットを食らいましたが、歯を食いしばって打ち返し2ラウンドで相手をノックアウトしました。試合後にリングを下りて父の元に駆け寄ると、父は嬉しそうに最高の笑顔を見せてくれました。
大学3年の秋にボクシング部のキャプテンになり、誰よりも一生懸命練習して部員を引っ張っていきました。そのおかげでボクシング部はまとまっていましたが、僕自身は学生の本分である学業に問題を抱えていました。大学に入った時に父と二つの約束をしていました。一つは大学を4年間で卒業すること、もう一つは卒業までに日商簿記検定二級を取ることでした。そこで、大学4年の時は練習を1日おきに途中で切り上げて神保町の簿記学校に通い、父との約束を果たしました。
大学4年の時の決勝戦の相手は東京大学の選手でした。当時の東大は赤門パワーと言われてスポーツが強かったのです。僕の対戦相手は20戦以上無敗の早稲田君、「東京大学の早稲田君のケーオー勝ち」というアナウンスが当時話題になった選手でした。僕はボクシング部のキャプテンとして先頭に立って練習がしたいと思い、決勝戦の10日前に簿記学校の欠席届の用紙を父に差し出しました。「どっちが大事なんだ!」を怒鳴られるのを覚悟していたのですが、父は引き出しの中から初めて見るハンコを取り出し、「これが一番縁起がいいハンコなんだぞ」と言いながら欠席届に押してくれました。早稲田君との決勝戦には自分の持っている最大のエネルギーでぶつかり2ランドKO勝ちで優勝しました。
大学卒業後、大きなグループ企業に就職してレストラン部門に配属されました。ボクシングは学生時代の良い思い出として終えたつもりでした。しかし、友達からのプロボクサーへの誘いに少しずつ気持ちが動き、ただ一度きりの人生で自分の可能性に挑戦したいと思いました。プロボクサーを目指してもう一度身体を鍛え直しました。でも、仕事を続けながらプロボクサーとして成功するのは無理でした。すると父から家に帰ってくるならボクシングをやってもいいぞと言われました。但し、25歳になるまでという条件付きでした。
こうして僕は、日本で一番古い名門の帝拳ジムに入りました。このジムには23歳の若さで亡くなった世界チャンピオン大場政夫を母親のように厳しく温かく育て上げたマネージャーの長野ハルさんがいました。長野さんはみんなからお姉さんと呼ばれていてプロボクサーになった僕のマネージャーでもありました。
23歳の6月4日、僕はプロデビュー戦を迎えました。応援に来てくれた両親や恩師をはじめとする50人以上の人たちの前で、相手をノックアウトするはずでした。しかし、1分46秒でノックアウトされたのは僕でした。試合後真っ先に長野さんの元へ行き「お姉さん、すみませんでした」と謝りました。すると、長野さんは一言だけ「今日はなかったことにしましょう」と言ってくれました。この言葉に救われました。恩師の宮崎先生からは「吉田君、逆境にあったときに本当の人間性がわかるんだよ」と言われて、思わず涙をこぼしました。
その後、しばらくは、朝はロードワーク、夕方まで仕事、夕方からボクシングジムで汗を流し、夜は本社で仕事という元の生活に戻りました。でも時間が経つにつれ、だんだんさぼるようになり、朝は走らなくなり、夕方はスポーツバッグを持って家を出てもジムには行かず、時には一杯飲んで帰るようになりました。こんな姿の僕に、ある朝母が大きな声で「走らないのか!負けたままで悔しくないのか!」と叱りました。この一言で僕は生まれ変わりました。そして屈辱の敗戦から8か月後24歳の時、僕はプロ第二戦目の1ラウンド1分4秒で相手をノックアウトしました。この試合には誰も呼ばなかったのですが、父が一人で後楽園ホールに見に来ていました。家に帰ると母が笑顔で出迎えてくれました。父も、かつての父の日と同じ最高の笑顔でした。
三戦目からは学生時代と同じ快活な自分に戻り、「必ず勝つから見に来いよ、試合の後はみんなで飲み会だ」と決まり文句で友達を誘って足を運んでもらいました。自分自身にプレッシャーをかけて負けられない状況を作り、有言実行しました。しかし、10月10日の東日本新人王選手権準々決勝で、ゼロ対2の判定で負けてしまいました。3日後に僕は25歳になりました。もし勝っていたら、頑固な父を説得してもう少しボクシングを続けていたでしょう。でも今は、これで良かったのだと思います。
ボクシングを離れてしばらくして、あの朝母が僕を叱りつけたのは、ボクシングで得た自信や信念をボクシングで失わせてはいけないという親心からだとわかりました。あのときは厳しい母だと思いましたが、今は心から感謝しています。
そして、今、ボクシングに対する感謝の気持ちを込めてJBCレフェリーとしてリングに立っています。試合前にレフェリーがリング中央で選手に何を話しているか知っていますか。決まり文句はありません。細かい注意は選手の耳に入りません。ですから大切にしている気持ちを言います。「JBCルールを守り、ベストを尽くして、悔いを残さないように頑張って」と。
最後に大好きな相田みつをさんの言葉を聞いてください。「人の世の幸不幸は人と人が逢うことから始まる よき出逢いを」 ありがとうございました。
【卓話編集後記】
東京足立ロータリークラブの会員でいらっしゃる吉田和敏様に、ボクシングを通して経験されたこと、学ばれたこと、家族とのつながり、いろいろな人との出逢いなど、心温まるお話をしていただきました。卓話の途中、ジャブやストレートのポーズを教えていただくなど、みんなで体を動かしながらの楽しいひとときとなりました。ご一緒に参加してくださった奥様の優しい笑顔、仲睦まじいお二人のお姿もとても印象的でした。
