今回の卓話
本日はお招きいただき有難うございます。
今日の話は、川柳でいうなら「噺家は見てきたような嘘を言い」というように、話は半分嘘だと思って聞いていただきたいと思います。
今日の東京は1200~1300万人の膨大な人口を抱える都市ですが、京都を差し置いて東京が首都になったのは、400年前に徳川家康が江戸に来て、人が生きるために必要な水の供給がうまくいったためです。 現在、東京都の保有水源量は1日680万立方メートル、消費水量が平均460~470万立方メートルと、多少余裕があります。現在の東京都の水道は利根川と荒川から約8割、残りの17,18%が多摩川水系からですが、多摩川の水は利根川と荒川が厳しい時に補強するという役割を持っています。
なぜ玉川上水が世界遺産としてふさわしいかという問題の歴史と意義についてお話いたします。それは、18世紀以前は玉川上水の給水技術が世界で最も優れていたという点です。
まず、江戸初期の街づくりについてお話していきます。資料でお渡しした約400年前の江戸の姿の図面をご覧いただくとお分かりのように、江戸城のすぐ下まで海で、浅草のあたりもほとんど湿地帯で人が住めないような場所でした。家康が来る前は、江戸重継の館があり、一帯が江戸の郷というわけで、江戸という名前はこの地名、人名から来ています。
家康がこんな不便な江戸に来たのは、豊臣秀吉が実力者の家康を目障りに感じ、遠くの辺鄙なところへ追いやったからではないかと思います。幕府の候補に鎌倉・小田原も上りましたが、江戸は関東平野にあり、発展の余地があると考えて街づくりをしたのが家康です。家康は江戸城の下に道三堀を作り、その掘った土で丸の内や八重洲の埋め立てを行いました。また慶長8年(1603)頃には江戸城の北部の神田山(今の駿河台)を掘り崩して、日本橋、京橋、新橋のあたりの城下町の整備を進めていきました。
なお幕末の絵図でわかるように、現在の浅草仲見世のあたりは、全部お寺でした。このお寺の境内の横で、掃除をするという約束で茶店を出せるようにしたのが仲見世の始まりです。徳川幕府は、今の人形町2丁目、3丁目にあった吉原の遊郭を、街づくりの邪魔であり風紀上良くないということで、浅草の観音様の裏に新吉原として移転させました。その後、観音様の裏手に芝居小屋ができ、芝居小屋ができると茶店、料亭ができて芸者がいるようになるという形で、浅草寺の近辺は発展してきました。
18世紀の頃には江戸は人口100万人の大都市でした。当時のロンドンが87万人、パリが55万人ですから、江戸が巨大な都市であったことが分かると思います。ただ、土地の7割以上は武家屋敷、1割がお寺が占めており、残りのわずかな1割弱のところに町人がひしめいて暮らしていました。
江戸初期の上水道開削についてお話いたします。人の生活のために必要な水ですが、飲み水と灌漑用の用水と生活用水として使われる上水の二種類の水がありました。江戸で初めて引かれた上水が、日本の都市水道の始まりといわれています。徳川家康が、湿地帯の江戸では井戸を掘っても海水の塩分で飲めないため、家来の大久保藤五郎忠行という家来に水源を探すように命じました。大久保は三河一向一揆のときに鉄砲の弾に当たって侍として働けなくなり、幕府御用の菓子づくりになりました。水の吟味に一家言あった大久保が見つけたのが井の頭池の湧水です。井の頭の池から下ってきたのが小石川上水や神田上水になりました。しかし、江戸の人口が増えるとこれらの上水も濁ってきたために、他の上水道が必要になりました。そこで開削が行われたのが玉川上水です。
玉川上水の開削にあたっては、承応元年(1652)に工事の総奉行として老中・松平信綱(川越藩主)、取締奉行に伊那忠治が任命され、実際の工事は庄右衛門と清右衛門の二人の兄弟が請け負いました。
多摩川の取水堰の羽村から江戸まで上水を引く工事は難航し、第一案、第二案が失敗し、庄右衛門兄弟による第三案の工法が実施されました。この工法では、水質の汚染を恐れて川べりを高く築いたために工事費がかさみ、途中で幕府からの資金が底をつきました。庄右衛門兄弟は自分たちの屋敷や私財を投げ打って、羽村から四谷大木戸間の工事を完成させました。この功績により、幕府から玉川という姓を賜り200石取りになりました。世襲制で水の管理を行っていましたが、1700年代に職務怠慢、不正の疑いで職を解かれました。これは濡れ衣で、幕府が財政として水利の利権を得るために理屈をつけてクビにしたようです。
この上水は、羽村から四谷大木戸まで約43キロの距離を落差92メートルという自然の高低差を利用して江戸まで水を引いたものです。上水の管理は厳しく行われ、洗い物、魚釣り、水浴び、ごみ捨てはご法度でした。水路の両側に約5メートルの保護地帯を設けて樹木を植え、立ち入りも厳しく管理しました。上水沿いに山桜を植えて花見客に歩いてもらって土を踏み固めさせたのが、上水沿いの今の小金井の桜の名残だと言われています。
給水管の木の樋などはどうしても腐ってしまったり汚物が混入する可能性があるので、腐蝕の改修費は武家と町人にそれぞれ石高や小間割りに応じて負担させました。
玉川上水は給水管が江戸市中に及び世界遺産にふさわしい優れた先見性と江戸のエコ社会についてお話いたします。江戸の場合は自然流下式でした。一方、フランス・パリの場合は19世紀にナポレオン3世が大改革を行うまで、蒸気機関が無かったために自然流水で汚れた水を使っていました。公衆トイレもなかったために、絵に残っているようにチュイルリー宮殿の茂みのあたりで紳士が排泄しているような汚い街でした。蒸気機関を使って上流で水を汲み上げて配水するようになって、ようやく飲用の水が使えるようになったと言われています。
江戸では、チリ紙交換のように、捨てた紙を集めてトイレ用の紙に再生していました。長屋や武家屋敷から出る排泄物はすべて汲み取って農地に肥料として撒いていました。すべて有機物として利用したために無駄がありません。また濠を作るために堀った土は深川や木場の埋め立てに使うなど、すべて清潔と廃棄物処理が徹底したエコ社会でした。日本人は古代から穢れ、汚れに対して非常に潔癖です。そのため、訪れる外国人が驚くほど日本人は長い間きれい好きで通ってきたのです。
このような歴史をもつ玉川上水を世界遺産にする活動には、世田谷南クラブの建築家天野彰さんが非常に熱心で2015年から活動しております。本当は東京オリンピックのときまでにアピールしたかったのですが、残念ながらコロナの影響などで活動が少し鈍っています。世の中が落ち着いたら更に玉川上水の世界遺産化を目指して活動を復活しようと思います。
尚、玉川上水は平成14年に東京地裁の調停によって、国が譲歩し、現在所有権は東京都に移管されています。
お時間も無くなってきたのでここまでにいたします。ありがとうございました。