今回の卓話
ご紹介いただきましてありがとうございます。サントリーの斎藤由香でございます。
皆様、作家の家というと素敵なおうちと勘違いされると思いますが、実は父が躁病、うつ病になり、一家破産、夫婦別居、大貧困生活という大変な騒動がありました。私の祖父歌人の斎藤茂吉の家も夫婦別居12年間という大変な家でしたので、今日は不幸の話をたくさん持ってきました。皆様のお家ででも大変なことがあるかもしれませんが、斎藤さんの家の方が大変だよねと笑っていただければと思います。
まず、父の母斎藤輝子の人生からお話いたします。輝子は東京の表参道にある4500坪の大きな精神病院、斎藤病院の娘として生まれました。当時はまだ精神病に理解がない時代で、精神を病んだ方は病院に閉じ込められたり、家で監禁されるような時代でしたが、輝子の父、精神科医の斎藤紀一は、どんなお金持ちでも心を患うことはある、閉じ込めるのではなく、太陽の下で運動してしっかり食べることが大事だという考えでこのような大きな病院を建てました。父の作品『楡家の人びと』の舞台にもなった病院です。
輝子の姉である長女が生後すぐに亡くなっていたので、次女の輝子が生まれると同時に跡継ぎ探しが始まりました。山形県上山にいた15歳の非常に優秀な少年守谷茂吉が斎藤病院の書生の一人として東京に呼ばれ、0歳の輝子と出会ったことが、一つ目の不幸です。茂吉は優秀で将来の跡継ぎにふさわしいということで輝子が9歳の時に二人は婚約させられます。これが二つ目の不幸です。輝子が18歳の時に二人は結婚します。茂吉がヨーロッパに留学して3年経った頃、好奇心旺盛な輝子はヨーロッパに行きたいと言い出し、一人で茂吉の元へ行きました。しかし、二人の夫婦仲は最悪の状態で帰国しました。出迎えの病院関係者からの「斎藤病院が火事で焼けた」という知らせが三つ目の不幸です。さらに、火災保険が1週間前に切れていたという四つ目の不幸が襲いました。茂吉は金策に走り回り、精神病院建設反対にあいながら、病院を建設するという苦難のスタートを切りました。茂吉は精神科医でありながら、歌人として次々と歌集を作り、4人の子供に恵まれましたが、夫婦仲は非常に悪く、昭和8年から12年間別居生活を送ります。しかし、茂吉が高齢になり弱っていた晩年は夫婦仲良く暮らしたそうです。
茂吉が亡くなった後、輝子の第二の人生が始まります。好奇心旺盛な輝子は、まだ日本人が海外旅行に行けない時代に64歳で訪れたアラビア半島を皮切りに、サハラ砂漠、80歳で南極、エベレスト、85歳でガラパゴス、87歳でセイシェルと世界108カ国を旅行しました。
輝子は大病院で生まれたお嬢様ですが、戦争で家を失い、四畳半一間の借家で食べるものにも困るような生活になっても、一番輝いていたのが輝子だったそうです。二人の娘を失い、戦争の困難や苦労、お金の苦労と、うつ病になってもおかしくないと思いますが、人の目を気にせず、ゴーイングマイウェイ、そして好奇心旺盛であったことが輝子の元気の秘訣だったと思います。
父北杜夫は、茂吉から絶対医者になるように言われて、旧制松本高校から東北大医学部に進学し、精神科医になりました。慶応の医局で無給で働いていたときに、三日後に出航する水産庁のマグロ漁船が医者を探していると聞き、その船の医者として横浜港を出て各地を回り、ドイツのハンブルクで三菱商事の支店長の家に行きました。そこでたまたまお茶を出したお嬢さんが、私の母です。帰国後に再会したのがきっかけで昭和36年に両親は結婚しました。
父は純文学の作家になる夢を抱いていましたが、なかなか原稿が書けずに苦労している時に中央公論の編集者から、「マグロ漁船のエピソードを書いてはどうか」というアドバイスを受けて書いたのが、『どくとるマンボウ航海記』です。商社マンの家で生まれた母は、結婚したら幸せになれるという夢を抱いていました。家の庭には薔薇の花が咲き乱れ、夕食の時は周りに刺繍が施されたテーブルクロスで、グラタン、ラザニア、ドリア、ビーフシチューといった母の手作りの料理が並びました。しかし、母の幸せはここまでです。なんと、父が躁うつ病を発症し、急に、「チャーリー・チャップリンのような映画を作りたい」と言い出し、その映画の製作費を作るために株の売買を始め、毎日の売り買いで家のお金を全て失いました。父は友人である佐藤愛子先生、遠藤周作先生、阿川弘之先生に借金しようとしますが、母はそれを嫌がり、二人の間で壮絶な夫婦喧嘩になりました。ついには夫婦別居、一家破産ということもありました。そういうわけで、私は家族旅行や海水浴、遊園地にも行ったことがないまま育ちました。
私は大学4年の就職を考えた時、父からひどい目に合っていたので、作家なんて最低だ、人間がまともに生きるのにはサラリーマンが一番だと思い、サントリーに入社しました。15年間広報部におりましたが、部長から斎藤さんは風邪もひかず元気だからということで、当時無名の健康食品事業部に飛ばされました。広報出身ですので、健康食品のセサミンが良いとPRしたのですが、誰にも見向きしてもらえませんでした。たまたま、スポーツ新聞の方に、マカが夫婦生活にオススメですとお話したところ、2001年12月11日のスポーツ新聞に非常にえげつない記事が出ました。この記事を見て真面目な研究員たちは絶句し、私も会社をクビになるかと思いました。ところがその日から、マカを買い求める電話が鳴り続け、12月20日で品切れになり、前年比6000%の伸びを記録するほどになりました。マカの効果が男性の心を捉えるのだと思い、あちらこちらでこの新聞のコピーを配っていたところ、「週刊新潮から精力剤コラムを書いてほしい」と依頼されました。上司に相談したところ、サントリーの「やってみなはれ」という社風のおかげでOKが出て、それがきっかけでコラムを書くようになりました。当時のコラムが何冊かの新潮文庫になっております。
ここで、皆様にイキイキと健康に生きるための大切なコツ7つをお伝えしたいと思います。まず、当たり前ですが、バランスのよい食生活と適度な運動がとても大切です。そして、質の高い睡眠。次に、今より10分多く歩く、運動+10(プラス・テン)。歯医者で歯石を取ったり、歯をチェックすること。駅ではエスカレーターを使わずに階段を使う。日本人は真面目なのでうつ病になりがちですが、そんな時に80%で満足するコツを身につけるのが大切です。そして最後にユーモアを身につけること。今年の暑い夏で、身体にもストレスがかかりダメージを受けていると思います。是非、この7つのコツを覚えていただき、体調を整えて、元気にお過ごしいただきたいと思います。
今日は誠に有難うございました。
